カルロス・クライバー追悼コンサート(In memoriam Carlos Kleiber)
日曜日の今日は午前11時から
Nationaltheater
で、先頃(2004年7月13日)亡くなられた指揮者
Carlos Kleiber
の追悼コンサートがありました。この名指揮者はミュンヘンに1968年1月13日「薔薇の騎士」でデビューして以来、260回のオペラとコンサート
を振りました。ミュンヘンの
Nationaltheater
が彼の指揮者生活の中では一番ゆかりの深い劇場であることは確かです。彼の訃報が告げられたあと、劇場が今日まで何の催しもしなかったのが、わたしには大いに不満でしたが、これでやっと胸のつかえが下りた感じです。考えてみれば数年先まで予定がびっしりと詰まっているわれわれの劇場の実情を考えると、ひとつのコンサートを挟むことはけっこう難しいことなのかもしれません。
追記あります(2004年12月16日) さて、今日の " In memoriam Carlos Kleiber " と名付けられた今日のコンサートは、まず現在の支配人 Sir Peter Jonas 氏の挨拶によって始まりました。開口一番「カルロス・クライバー氏はこんな催し物が大嫌いだった」という意表をついた言葉。そのあとの説明によると、彼と Kleiber 氏の最初の出会いというのは、1970年代にシカゴにおいてだったそうです。Sir Peter Jonas 氏はその頃シカゴ・シンフォニー・オーケストラの芸術面の責任者だったらしい。ちなみに彼のアメリカデビューは1978年10月12日で次のようなプログラムだったとか。 1.「魔弾の射手」序曲 2.交響曲第三番・D-Dur /F.Schubert 3.交響曲第五番・/L.v.Beethoven 彼の挨拶のあと、今日はその当時の彼とのゆかりの曲をオーケストラが指揮者無しで演奏しました。この催しに指揮出来る人はわたしもちょっと考えつきません。難しい。 George Butterworth : Two English Idylls (1911) そのあと引き続き、Unitel のJan Mojto 氏が挨拶に立ち、カルロス・クライバー氏と Unitel の結びつきについて話しました。そのあと、舞台に準備されたスクリーンに Unitel が編集した在りし日のカルロス・クライバーの勇姿が映し出されて満場のため息を誘います。写されたのは次の3本。 1.「こうもり」からの抜粋(1986) 2.交響曲第四番・e-Moll / J.Brahms からの抜粋(1996) 3.「薔薇の騎士」からの抜粋 (1979) カルロス・クライバーのカルロス・クライバーたる場面を集めたものだっただけに、上映中は息が止まらんばかり。涙が溢れそうになったり、見ている自分までが天に飛翔する思いを味わったり、とっても、濃い時間を満喫しました。映像の中の歌手たちの中には彼よりも早くこの世を去ったルチア・ポップのゾフィーの映像などもあったりして、時の流れの無情さも合わせて味わいました。客席にはギネス・ジョーンズ、ベンノ・クッシュ、ヴォルフガング・ブレンデル、エディタ・グルベローバなどの歌手も座っていて、一緒にカルロス・クライバーを偲びました。 プログラムには Sir Peter Jonas 氏の他に Wolfgang Sawallisch 氏もコメントを寄せていますが、大まかな内容は次のようなものです。 カルロス・クライバー氏のことで一番先に思い出すのは、Fasching (カーニバル)時に行われた「こうもり」の公演で毎年3幕の始めに仮装して指揮台に上がった愉快な姿のこと。自分自身も楽しんでいたのだろう、最初の年は自分からすすんで女性のカツラを着けて登場、好評をとった次の年にはアヤトラ、そして、ボリス・ベッカー、MAN の作業員姿、と、このシリーズは続いた。 彼のことを考えると、彼は自分自身を追い込んでいったのだとわたしには思える。自分がそれまでに打ち立てた偉業を意識する余り、それ以上のものを求めてやまなかった。一度は「薔薇の騎士」の第三幕が始まるのに、彼が「指揮者控え室」に鍵をかけて出てこないことがあった。その当時、支配人と音楽総監督を兼任していたわたしは扉の外からなんども懇願し、終いには脅しもかけてやっとの事で彼を引き出した。すると彼は恐ろしい勢いで指揮台にのぼり、観客が拍手する間もなく棒を振り下ろした。 わたしは、今になって考えてみると、彼の受けていた抑圧、不安、などをあの当時よりも良く理解することが出来る。そしてまさに、彼の音楽に対する妥協の無さがわれわれのオーケストラをして彼を愛させたのだ。 また、Unitel からのコメントの中にも似たようなエピソードが書いてありました。 それはUnitel の企画でウィーン・フィルハーモニーとの最初の録画の仕事の時。このときの Musikvereinsaal はピリピリした空気に包まれていて、その場にいることを許されたのはウィーンフィルのメンバー以外はプロデューサーの Horant H. Hoflfeld 氏と画面演出家の Humphrey Burton 氏の2人だけ。 オーケストラとの練習が最高潮に達した時にそれは起こった。彼が急に15分間の「喫煙休憩」を言い渡したのだ。そして休憩時間が過ぎた時にオーケストラの代表が指揮台に上がり「君たちに何と説明していいか自分でもわからないんだがーーー彼はどこかへ行ってしまった」と楽員に説明した。2回目の試みはアムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラでベートーベンの交響曲4番と7番の録画に成功した。 最後に、今日3本のフィルム抜粋を見て思ったのは、若さというのは何と素晴らしいものか、そして老いるということは何とむごいことか、ということだった。1979年の「薔薇の騎士」を振っている彼のなんと輝いていたこと。そのまま空を自由に飛べそうなほど軽やかで歓びに溢れてその姿は神々しいばかり、一転して1996年のヘラクレスザールでのコンサートの彼がいかに苦しげにあえぐように指揮をしていたことか。もしかするとこの時すでに病気に冒されていたのかもしれない。静かに公演が終わりを告げて客席を出てきた人々の中には涙をぬぐっている人が少なからずいたことに、わたしも共感を感じていた。 追記(2004年12月16日) その後の新聞を見てみましたら、この日は、ブリギッテ・ファッスベンダーさんも客席に座っておられたそうです。わたしの聞き漏らしでした。 Posted: 2004年12月12日 (日) at 17:09
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