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またもユリアがテーマである。
彼女がバイロイト大学に入学願書を出した時、その中に「あなたの尊敬する人物は?」という記入項目があったそうだ。ハテ、と考えたがこれといった人物が浮かばなかったので、わたしの名前を書いたものらしい。彼女がまだインスブルックで学んでいたときにチャットをしていて、それを知った。
わたしは娘たちにその辺のことを説明したことはないので、ブリギッテから聞いたのだろうが、あまりに美化されすぎているように感じたので、「いやいや、あの時には親身になってなにかとわたしを助けてくれる人たちが周りにいたという幸運があったし、3回も受験したというのも経済的な裏付けがなかったからなんだよ、それだけのことだ。」と答えた。
それを説明しても彼女にしてみれば「それにしても…」ということらしかった。まあ、自分自身がいま20歳という、あの時のわたしの年齢と同じ時点に立って迷っているときにそう考えるのは、わかるような気がする。数年後に同じ問いを投げかけられたときには他の偉人たちの名前を挙げるようになっているに違いない。(笑)事情を説明すると、あの当時(昭和40年代)の私立音楽学校の入学金というのはピンは桐朋学園(確か50万円ぐらいだった)キリでも20万円ぐらい(武蔵野音大、国立音大など)だったような記憶がある。もし、それらの音楽大学の入学試験に合格したとしてもそのあとの学生生活に必要な授業料を払う目当てはわたしにはなかった。ただ一つ国立の東京芸大だけがわたしの唯一の選択肢だったのである。入学金の額は忘れてしまったが三万円ほどではなかったろうか。授業料が年間一万二千円だったことはハッキリと憶えている。わたしは育英会の奨学金を受けることが出来たのでアルバイト(音楽に関係したものではない)をしながらなんとか卒業することが出来た。
話が横道にそれるが、育英会の奨学金というのは貰っていたときには本当にありがたかったが、返還するときにはかなりきつかった。ドイツで中都市の歌劇場に専属契約をしていた時に、年末にごそっと7万円ほど払わなくていけないのはかなりの負担だった。それをすべて払い終わったときには本当に肩の荷が下りた、という感じがしたものである。まあ、借金というのはすべてそういうものかも知れない。(^_^;) それに懲りているので、その後はローンを使った買い物はまったくしていない。またまた横道にそれる。芸大での学生のあいだ、音楽関係のアルバイトを一切しなかったことだが、これにも理由がある。わたしは20歳を過ぎてからピアノの練習をバイエル教則本から始めた。というのも声楽科の入学試験にはピアノの課題曲というのがあって(J.S.Bach/2声 のインヴェンション)どうしてもそれは弾けなくてはいけなかったから。受験までの半年間、そればっかりを練習していた。であるから、無事、声楽科に合格してもピアノはまったく弾けないといってよい。
しかしいちおう芸大の学生だということで家庭教師のアルバイトの口は時々舞い込んでくる。わたしはそれを敢然と断っていたのだが、それにもわけがあった。わたしを音楽の世界に導いてくれた最高の恩人である故郷の先生が「あなた、生活に困っても子供たちにピアノを教えるというような不埒な考えを起こさないように。あなたがそんなことをしたら音楽公害を世にまき散らすようなものです!」 と釘を刺されていたからである。自分でも「そりゃあ、そうだよな」と思っていたからその忠告はスンナリと受け入れ、工事現場のガードマンのアルバイトなどをしてなんとか卒業することが出来た。夜間の工事現場ガードマンはきつかったけれどいい収入にはなった。辛いこともいっぱいあった筈だけれど、あとになって回想してみると甘い思い出だけしか残っていない。自分の娘たちにも精一杯その時を生きていって欲しいと思うだけである。