ヴァレンタインデー

今朝、妻がニヤニヤ笑いながら写真の袋を手渡してくれた。

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わたしもすぐに気がついたが、今日はヴァレンタインデーだった。もう何度も書いているがドイツのヴァレンタインデーは男性が女性に花を贈る習慣になっている。しかし、いつだったか日本のヴァレンタインデーの様子を話して聞かせてからは、わたしにプレゼントしてくれるようになった。

わたしは最近けっこう食べるようになったけれどあいかわらず甘いものは苦手。それで彼女がプレゼントしてくれたのはイカと小魚の燻製。おつまみである。

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これらは EDEKA というスーパーマーケットで売っている。以前に試しに買ってみたところ日本のコンビニで売っているものと同じ味がした。それを憶えていたらしい。

しかしやはりチョコレートがないと格好がつかないと考えたのか、下の写真のアルコール入りチョコレートも袋の中に入っていた。(^_^)

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貰って嬉しかったクリスマスプレゼント

2015年(昨年)のクリスマスに義母から古いビールジョッキをプレゼントされた。昨年は彼女を何度も車に乗せて病院やら買い物やらに連れて行ったものだから、それを感謝してということらしい。

いただいたのは義母のおばあさん(1880-1961)から受け継いだビールジョッキ。錫製の蓋はそれなりに古色蒼然としているがなかなかの風格で、とても嬉しい。少し手入れをしてこれでビールを飲んでみるつもり。

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この女性はブリギッテのひいおばあさんにあたるわけだが、写真が残っているのでそれを揚げておく。1枚目の写真は抱かれている義母が2〜3歳の頃のもの。多分1933年頃だろう。

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次の写真は女性四代にわたる写真で左の幼子がブリギッテである。右から二人目はブリギッテのおばあさん。ひいおばあさんにとっては息子の嫁で、この二人に血のつながりはない。
これを見ていて写真って撮っておくべきだなぁとまたしても思った。

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新しい「歩数計」

日本から旅行で来ているご夫妻に頼んであった歩数計を今日受け取ってきた。メーカーは前回と同じくオムロン。つい先日まで10年間使っていたものとはずいぶん様変わりしていて単純な「歩数計」以外にもいろいろな機能が付いている。わたしとしてはこれまでのように単純なものが望ましいが競合する会社が多いからそうもいかないのだろう。

名前も「オムロン 活動量計」(HJA-403C) Calori Scan というものになっている。

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機能が多いだけ設定も複雑。使い方などは徐々に慣れていくしかない。9月半ば以後今日までほとんどウォーキングが出来ていないので、年が明けたらまた精進する覚悟だ。そのモチベーションを上げる手助けになってくれれば。

70年前に思いを馳せる

明日8月15日は日本の敗戦記念日。ドイツが降伏したのはそれよりも早い5月始めのことだった。70年前の出来事である。

もう何年もわが家の前を走る道路の向こうに拡がっている森をウォーキングしている。最初の数年間は気がつかなかったのだが、ブリギッテの叔父さんが森の真ん中を走っているアスファルト道路の向こう側に小高い丘があることを教えてくれた。そこは Perlacher Mugl(ペルラッハー・ムーグル)と呼ばれている。

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ミュンヘン市とその周辺はそのほとんどが平地であって東京のように坂の多い町ではない。だから自転車で走るのにはとても適した街。わたしのウォーキングコースでも丘と呼べるのはここだけ。

その叔父さんが説明してくれたところによるとこの丘は第二次世界大戦の時に、防空壕を掘ったときに出た土を盛ったものだそうだ。

意識してミュンヘン市内を見てみるとちょっとしたところに小高い丘があって現在は公園のようになっているところが何カ所かある。これらのほとんどが防空壕を作ったときに出た土を盛った場所らしい。

わたしの故郷である炭鉱町には「ズリ山」というのがあった。これは地中から掘り出した石炭を選鉱した後の土の山である。違うのは戦争という悲惨さから生み出されたものと経済の繁栄から生み出されたものという差だ。

ある天気の良い朝にわたしはこの Perlacher Mugl に登ってみた。戦争終結から70年経つと頂上までの道は緑に包まれて柔らかな自然そのものである。

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そして頂上に立つとそこには展望台があった。

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そこに立つと空気が澄んで視界が良ければ遙かにアルプスが見える筈である。

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おそらく現在ミュンヘンに住む多くの人は、この緑に包まれた丘を見て戦時のことに思いを馳せることは無いだろう。誰かに教えられてそれを知ったとしても「ああ、そうなんですか」で済んでしまうにちがいない。

わたし自身が敗戦の二年後に生まれたから戦争は体験していない。そんなわたしが偉そうに戦争の悲惨さを語る資格はない。幼児体験として憶えているのは周りの皆が貧しかったこと、でもどこか明るさと活気に満ちていたことだけ。

この丘を見てもその土の量の多さから観念的にその当時の恐怖と悲惨さを想像するしかない。

時間の流れというものはそういう事なのだ。もしかするとそれで良いのかもしれない。

カローラのケーキ

十日ほど前にブリギッテの職場の若主人夫婦に頼まれてカローラが作ったケーキ。

今回は若主人夫婦の長男が洗礼を受けたのでそのパーティで披露、食べるもの。

男の子(名前はダミアン)なので基調の色はブルーということらしい。

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庭の紫陽花

日本ではもう紫陽花の季節は過ぎてしまっているだろうけれど、わが家の庭では今が盛り。この写真は5日前に写したものだが今日あたりはもう少し力がみなぎっている感じがする。

赤い花の紫陽花も植えてあるのだが、青い花の方が美しい。
記録としてアップしておく。

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カローラ作のケーキ、また

先週Carolaが作ったケーキがまたまた見事だったので記録しておく。

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チョコレートケーキ。ギムナジウム時代、音楽教師だった恩師の奥さんが60歳の誕生日を迎えたので奥さんのためにと頼まれたそうである。

例によってマルチパンで作られたグランドピアノの見事なこと。ピアノの内部もいかにもそれらしい。黒鍵のひとつが床に落ちてしまい見つからなかったのでちょっと変なのはご愛敬。(笑)

書かれた文字は Happy Birthday Felizitas なのだがそれぞれの単語の最初に注目して欲しい。ト音記号やらバス記号を使っている。そしてケーキを囲んでいる音符は「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」のメロディだ。

このケーキを見たかつての恩師は「これまでで最高のケーキだ!」と感激だったらしい。

昨夜の食事会

昨夜の食事会の内容を記録しておく。週末ではなかったからその日に料理するということは不可能だったので、前夜に準備できるものは作っておいた。当日のブリギッテは普段通り8時に家を出るので早朝5時起きして最後の準備。そのあとのテーブルセッティングとか鴨肉を切り、盛りつけるのははわたしに任せられた。必然的に温かい料理はなし。

飲み物はビール、白ワイン(エルザス産のゲブルツトラミーナ.2013)、ミネラルウォーター。

食卓を囲んだのはわれわれ夫婦を入れて6人。ドイツ人女性と日本人男性の組み合わせである。年齢もブリギッテを除いて皆60歳以上。

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前菜は冷たいスープ、ガスパッチョ。小さな器に入れて一人2個ずつ行き渡るようにした。1個で止めておいても可。

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醤油味をベースにした日本風ヌードルサラダ。わたしが昼食に食べようと買っておいた「讃岐うどん」をいつの間にか使われてた。(-_-;)

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シーフードサラダ。シーフードは出来合いのもの。

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レンズ豆のサラダ。

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アボカドクリーム

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鴨の胸肉ローストを刺身風に切り、ソースを回し掛けておいて上からネギの小口切りと生姜の薄切りを乗せたもの。今回唯一の肉。

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茹でた空豆。茹でているときにブリギッテが電話に出たために忘れて茹で過ぎ。きれいな緑色に仕上がるはずだったのに残念。(^_^;)

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デザート。サンドロンクリーム(Sanddorncreme)サンドロンって調べてみると日本ではシーバックソーン(海のクロウメモドキ)と呼ばれたり、
サジーという名前のようです。

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誕生祝いのケーキ

先週、ブリギッテに頼まれて作ったCarolaのケーキが好評だったので記しておく。

ブリギッテが勤めている宝石店の工房で働いている友人が40歳の誕生パーティをすることになりわれわれも招待してくれた。仕事場の仲間たちがお金を出し合いパリ旅行の資金の足しにとプレゼントしたという事を聞いたブリギッテがパリをモチーフにしたケーキをCarolaに注文した。

デザイン、ケーキの内容などは全てCarolaに一任したのだが、やはりパリならエッフェル塔だろうということでデコレーションに選んだようだ。

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30x30x10cmのケーキ本体の上にもう一つ小さな台座のケーキを作って乗せその上にエッフェル塔を乗せる。このエッフェル塔はどのようにして作ったのかは分からないが素材は砂糖と卵白だけ、リボンは飴細工ということだ。

Carolaのところにそれを受け取りに行ってそれを見た時まず考えたのは「これ、どうして運ぶの?」ということだった。誕生パーティの会場までは車で40分くらい走らなくてはならない。その間にちょっと急な坂道が一箇所ある。土台のケーキに台座とエッフェル塔を乗せると全体では35〜40cm位の高さになる。当然車で運ぶときにはエッフェル塔と本体を分けなくてはならない。

土台の方はそれ用の箱があるので坂道のところでずれないように滑り止めシートを下に敷いておけば大丈夫。問題はエッフェル塔だ。

Carolaからも「壊さないように!」と注意されていたから運ぶのには細心の注意を払った。どうしたかというと、まず発泡スチロールの板上にエッフェル塔を乗せ台座のまわりに爪楊枝を立ててずれないように囲む。しかしこれだと台座に直接爪楊枝は立てられないので上下にバウンドしたらお終いである。

それを助手席に座ったブリギッテに両腕で水平に持って貰い、出来るだけ道路のくぼみを避けるように注意深く車を走らせた。蕎麦屋の出前持ちが使う、バイクの後ろに付けたバネ入りの運び台を人間が替わりにやったわけだ。どうしても道路のデコボコを避けられない地点ではわたしが前もって Achtung! と注意を促してノロノロ運転。(笑)

ようやく無事に到着してそこでケーキを組み立てたのだが、すでにその時点で招待客の目を奪うこととなった。「このエッフェル塔はどうして作ったの?食べられるの?」という質問攻めに遭ってブリギッテはどや顔満開。
ケーキ本体にはチョコレート文字で Bon Voyage! (よいご旅行を!)と描いてある。(下の写真)

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デザートの時間が来て招待客たちに誕生日を迎えた本人がケーキを切ってあげていたがエッフェル塔のところで包丁がピタリと止まってしまった。(下の写真)

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彼も切って食べるのは勿体ないと思ったらしい。われわれが失礼するときにはまだエッフェル塔は建っていたが、そのあとどうなったかは知らない。(笑)

縁起担ぎ

わたしは縁起を担ぐほうではない、と思っていた。しかし先週の木曜日2月26日の朝の自分の行動を振り返ってみるとそうではないのかも?という気になる。

この日、2月26日はわが家に1週間ホームスティしていた M嬢が日本へ戻る日だった。お預かりしている間心配だったことはどこかで交通事故とか窃盗事件、テロ事件に巻き込まれることだった。

幸いなことに1週間が無事に過ぎてその日はいよいよ彼女が空港へ向かう日だ。しかし何事も最後の締めが肝心。フッと気を抜いた時に思いがけない事故が起こるのは何度か経験している。

で、このところの日常で4時20分頃に目が覚めた。トイレに行こうかなと思ってベッド脇の時計を見ると4:29となっている。なんだか縁起の悪そうな数字だ。もう少し我慢してと思っていたら4:44となっている。こりゃいかん!

そのあとグズグズしているうちに時計の文字盤は4:49となってしまった。こうなるとまた動けない。トイレに行くのを我慢して5:00迄は待とうと努力する。

やっと5:00になって起き上がろうとして、もしかするとベッド脇の時計は(電波時計ではない)正確では無いかもしれないと不安になった。そこで時計が5:03を示すのを待ってやっと起き上がりトイレへ。

そのあと二度寝して起きた時に、外はもう明るくなっていた。明るい陽の中でそのことを振り返ると自分ながら「バカだなぁ」と思う。わたしはやはり縁起を担ぐ方なのかもしれない。それとも老いたか?

ベッドを新調した

妻の持病である背中痛とわれわれの老後のためにと新しく多機能なベッドを先週末に導入しました。義父を介護していてベッドってとても大事なんだとあらためて気づいた次第。

そして今週から生活様式が一変。夕食を食べ終わってしばらくすると彼女はそそくさとパジャマに着替えてベッド・イン。

理由は寝室にテレビを移したからです。リモートコントロールで背中の部分を立てて腿の部分も少しあげるとテレビを観るのに快適な姿勢となります。眠くなったら背中の部分を元通りにしてそのまま眠りにつくというわけ。

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ときどき何かが必要になると自分でベッドから出る代わりにダイニングキッチンにいるわたしに WhatsApp で”Osamu kannst mal kommen” (ちょっと来てくれる?)とメッセージが入ります。(^_^;)

今は妻の仕事も忙しい時期で朝は7時頃に家を出て夜は7時頃にグッタリした表情で帰宅するのでそれでいいのかな。

雪の中の小鳥たち

今年の冬は小鳥の餌台を新調した。毎日ほぼ同じ時間にたくさんの小鳥たちが訪れる。ほとんどはシジュウカラ (Meisen) とクロウタドリ (Amsel) なのだが、時にキツツキ (Specht) も来る。

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これも希にだがゴジュウカラ (Kleiber) も姿を見せる。ブリギッテはこのトリが来ると「Carlos よ!」と喜ぶ。指揮者のカルロス・クライバーにかけているらしい。(笑)(下の写真はWikipediaのものです)

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クリスマス休暇で帰省している娘たちにブリギッテが「ここ数日クライバーが来ないわね」とつぶやいたら娘の答えが「クリスマス時だからどこかで指揮してるんじゃない?」

母と娘のクリスマスらしからぬ会話

一昨日、12月25日のこと。
総勢10人のクリスマス食事会は18時に予定していた。1時間ほど前にオーブンで焼き上がったガチョウ(Gans)をブリギッテが切り分けていた。

今年は2羽のガチョウを1度に焼いたので専用のハサミとナイフで切り分ける作業も重労働。2羽目のガチョウに取りかかった頃には彼女にも疲れが見え始める。3人の娘たちは手伝いのためにブリギッテの両脇にいておしゃべりにも余念がない。そこでの会話を聞くともなく聞いていたら・・・。

ブリギッテ:
(コンガリと焼き上がったお腹を上に横たわっている2羽目のガチョウを前にして)
今日のお客である○○○さんだったら大学で解剖学を学んでいるはずだから、どの関節を切り離せば良いかとか、どこにナイフを入れればきれいにさばけるかとをよく知ってるはずよね〜。
(と言いながら詰め物をして縫い合わせた部分の糸を切り始めている。彼女は婦人科の医者でわが家の女性陣は全員が彼女の患者)

娘のひとり:(次女か末娘)
そうとも限らないんじゃないの?このガチョウがメスであればそれは言えるかもしれないけれどオスだったらどうかな〜、ハハハ!

会話を耳にしたわたし:
ドキッとしていっしゅん股間に違和感を感じた。(^_^;)

短い介護経験から得たこと

1.基本的に個人での介護は無理がありすぎて絶対に家族の誰かを不幸にする。
2.年齢を重ねたら健康なうちに然るべき時点で介護センターに入所出来る準備(蓄え)が必要。
3.介護保険はしっかりと掛けておくべき。
4.公的に利用出来る制度は積極的に利用すべし。
5.本人が望まないのに入院させ延命させるのが幸せとは思わない。

ブログをしばらく休止した理由。

今となってみればわずか16日間の介護で義父は亡くなった。正直な感想はよいタイミングで亡くなってくれたというもの。わたしの人間性を疑われるような事を書くがこれが本音である。

今日から全てが以前通りに回転し始めた。義父を引き取ってからも毎日日記は書いていた。しかし、その内容がだんだん暗い方向へと引きずり込まれていき、1週間後の日記は愚痴が多くなってきた。こんなものは誰も読みたくはないだろう。

介護をすることになったと書いたときに多くの知人、友人から「頑張って!」「身体を壊さないように}という励ましの言葉をいただいた。ありがたいことである。しかし介護の時が進んでいくと、それらのお言葉に返事を書くのがつらくなってきた。それらの言葉によって救われるということは決して無いからである。

このあとに読んだ本でそんなわたしの気持ちにピッタリの場面がでていたので引用しておく。

(引用開始)
それにしても、会うごとにどの友人にも「どう、落ち着いた?」と訊かれるのには、留美子は閉口した。父親の不幸な事件のショックから立ち直ったかーという慰藉の言葉には違いないのだが、そのつど、さりげなく平然を装ってみせるか、もっともらしく深刻ぶってみせるか、存外、難しいものである。(p.298)
(引用終わり)

励ましてくれたコメントへの返事がだんだん遅くなったりする自分が卑小に思えてそれがまた自分を苛んだ。こうしてネガティブ・スパイラルに落ち込んでいくのだという自覚があった。これからあとも介護をすることになった知人、友人がいたら何も言わずにそっと見守って上げたいと思う。

出口の見えないトンネルの中に自分がいると自覚するのはつらいものである。

スピード違反

8月1日(金)・晴れ/最高気温23度

去る7月8日に車でオルデンブルグへ向かったのだが、途中でアウトバーンの乗り換え時にピカッと光った。折悪しくかなり強い雨が降っているときだったので稲妻かなと思ってそのまま通り過ぎた。

今日郵便受けに入っていたのはスピード違反の通知書。あれはカメラのフラッシュだったようだ。(-_-;)

そこは違うアウトバーンに切り替わる地点で、当然のことにスピードは出せないしかなりの雨だったから注意して走った記憶がある。しかし書類を見ると制限速度80Kmのところをわたしは87Km で通過したそうだ。

7Km オーバーである。違反料金は10€。

そういえばもう20年以上も前になるけれど、やはりアウトバーンの出口でピカッと光ったことがあった。その時は確か60km制限のところだった。このどちらもヘッセン州(フランクフルトのある州)での出来事。これからヘッセン州に入ったら気をつけて運転しなくては。(^_^;)

血液検査の結果

昨日家庭医の処に出向き血液検査のために血液を採取した。1年に1度はやるべきなんだそうだ。その結果が出たというので印刷して貰ってきた。

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日本人とドイツ人の身体能力は違うだろうから基準となる数字の評価は若干異なるかもしれない。赤い線で囲んだ箇所はわたしが大事だろうと思う項目である。

総コレステロールの数値が許容値を超えているがこの意味はよくわからない。その下のコレステロール値(HDL/LDL)が正常だからだ。WEB で調べたらそれほど気にすることもないようだ。

肝機能は1年前の数字と較べると若干低下している。まだ許容範囲内ではあるけれどちょっと酒量を控えたほうが良いのかもしれない。最近は Weißbier を一本(500ml)飲んだあとに続いてワインを飲むことが多かった。(^_^;)

昨年と同じように今回も特別に検査して貰ったのは「前立腺」。わたしの年代の男性はこれが鬼門だと思える。この数字を見るとどうやら前立腺癌の疑いはないようである。

昨年の血液検査へのリンクは
血液検査の結果 |  Mein dritter Blog である。

というわけで来年の検査までは少し酒量を抑え、適度な運動をして毎日を過ごすつもりだ。

山学校

昨日は体調が良くなく目まいがしたので英語コースをサボろうかなという気が働いた。(^_^;) そのあとで夕食を街中でとる約束があったので結局出掛けたが終わってみればサボらなくて良かった。今日になってそんなことを考えていたらふと幼年時代の「山学校」という言葉を思い出した。

わたしは小学校の頃からとにかく真面目に学校に通う子供だった。あの頃は休まずに登校してきた生徒には「精勤賞」という賞状が与えられたが、小学校、中学校を通してわたしは何度もそれを貰った記憶がある。

しかし真面目に学校に通うのとよく勉強するというのは別物である。わたしは自分でも否定できない薄ボンヤリとした子供だったし下校したらランドセルを家の中に放り込んですぐに遊びに出てしまうような少年だった。まあ、周りを見ても宿題を済ませてから遊ぶなんて殊勝な子供はいなかった。

弁当箱を紛失してしまったと言って小学3年生の頃までに新しい弁当箱を2つ買って貰ったのはその頃のこと。のんびりしていた時代とは言っても、3年間に2つというのはちょっと多い。(笑) これがよくよく調べてみたら空の弁当箱はランドセルの中に見つかった。親は「空の弁当箱を担いで毎日学校に行っていたなんて、なんてボンヤリしている子なんだろう」と叱られた記憶があるが、今になってみれば親もわたしのランドセル内を点検しなかったというわけでどちらもどちらである。(笑)

で、「山学校」という言葉だが、これは学校に行くのをサボって近所の山で遊ぶことを当時の子供達はそう呼んだ。クラスの中でときどきこれをやる生徒がいて(男生徒だけだが)、そいつらが休むと「あいつら、また山学校に行ったな」と級友達と噂していた。

山学校をちょくちょくやる生徒は当然学校の授業についていけなくなることが多い。そしてまた山学校へという悪循環だった。わたしは「あいつらはバカなんだ」と子供心にも見下していたのだが、あるときその生徒達がときどき他の生徒達が弁当を開いている時間に校庭に出て遊んでいるのに気がついた。

彼達は弁当を持って来られないことを恥じていたのだ。昭和29年から30年代になろうとしていた頃には子供に弁当を持たせられない貧しい家庭がまだあったのである。絶対にお腹が空いてたまらなかったろうし、まわりの生徒達が弁当を使っている中にだまって座っているのは耐えられなかっただろう。

彼達が毎日弁当を持ってくることが出来ていたら、その結果学校の授業にもついていけて「山学校」に行くこともなかったろうに。そんなあの頃を思うともの悲しくなる。

なにやら惜しい宝くじ

昨年の暮れに日本に滞在していたときに大井町駅前で「年末ジャンボ宝くじ」を買った。運試しと滞在を記念してという気持ちだったと記憶している。

年末年始の忙しさにそれを忘れていたのだが、昨日その記事を見てイソイソと買った宝くじを調べてみた。

買ったのはバラ券10枚入りのものだったが、結果は¥300が一枚当たっていただけ。しかしその中には「これは惜しいのではないか」と思える札があった。

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ちなみに当たりクジ番号は1等(5億円):23組130916番である。組こそ違え 130916番と 138916番 はなにやら近いような気がするのだけれどわたしの感覚がおかしいのかな? (笑)

ブログを始めて10年が過ぎた

今日もウォーキングをしていたのだが、歩いている間に気がついた。10日前にわたしがブログを書き始めてから10年目を迎えていたのだ。最初の記念すべきエントリはこれ。

Weblogに挑戦 

最初の頃はアップル社から無料で提供された iBlog というソフトを使っていてこの iBlog を中心にいろいろな分野の素敵な人とのつながりが生まれた。今でもそのつながりは続いている。この一点だけでもやって良かったと思う。

ブログを始めたそもそもの目的は故郷に住む姉にわれわれ家族の日常を知らせることだった。姉にしてみればドイツに住む姪子達の日常を知りたかったのだろう。

だから日記がわたしのブログのメインになっている。そのあとに数個のカテゴリが追加されていったが、現在はまた原点に戻ったように日記主体のブログとなっている。

2012年7月までオペラ劇場に勤めていてその時その時のトップクラスの指揮者や演出家、そして歌手達を肌で感じることが出来たのは大げさでなく毎日が興奮だった。

夜になってマックに向かったときに、あれもこれもと書きたいことは沢山あったのだがブログ上では「なにを書くか、よりもなにを書かずにおくか」をいつも心掛けていた。時々は書かずに残念と思うこともあったが、今ではそれで良かったのだと思っている。

わたしのブログを読んでくれている人たちから届くコメントのおかげでこれまで楽しくやってこられた事は感謝以外の何物でもない。その日の出来事を書いているうちに結果として、1日1日を大事に生きるようになっていった。

これまで飽きずに読んでくださっている人たちには改めてお礼を言いたい。そして、これからもこのスタンスで続けていきたいと思っている。

10歳ーその3

こんな事を書きながらじつはわたしも過去に似たようなことを末娘にしている。それは娘がまだ11歳にならない1997年の夏のことだった。11歳からは航空運賃が大人並みになるからである。

東京に数日滞在している間にどうしても秋葉原は1度訪れておきたかった。しかし10歳の娘連れでは行動範囲が狭まるし何軒も廻れない。

そこで秋葉原駅の改札口を出てすぐ左にあったバーガーを売る店に入りハンバーガーとフライドポテトを娘にあてがい「パパは1時間で戻ってくるからここに座って食べていなさい」と言いおいて電気店巡りを始めた。

1時間あとに戻ってみると娘の前にはまだフライドポテトが残っていて「なんだ、食べなかったの、おいしくない?」と訊いたら目に涙を浮かべながら「パパが戻ってくるかどうか不安で喉を通らなかったし、わたしフライドポテトはあまり好きじゃないの」と言われてさすがのわたしも自責と後悔の念に駆られた。そのとき末娘はまったく日本語を解しないし話せなかった。なんという父親だったんだろう。

日本に戻って妻にその話がばれ、キツイおしかりを受けたのは、今では自業自得だと思っている。そのあと故郷に帰ってそこで急性肝炎を発症しドイツに戻るまで寝込んでしまったのはその罰が当たったのかもしれない。あの夏も日本は強烈に暑かった。

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その話を聞いてわたしもその男の子ぐらいの年齢の時に似たような経験をしたことを思いだした。

1度定年になった父がそのあとの職場として通っていたのは隣町だった。あるときその会社の運動会があって珍しく父が10歳ぐらいのわたしを連れていってくれた。あとから考えるとわたしの同伴はどうも母の命令だったようだ。

しかし運動会が終わっていざ帰ろうとしたら父が「俺はちょっと用事があるからお前1人で帰れるな?」と言う。気の弱いわたしはあいまいな返事をして父と別れたが、本当は自分がどこに居るのかもわからなかった。

どうにかこうにかわたしは家にたどり着いたのだったがその途中の経過は全く記憶に無い。ただもの凄く心細かったのをいまでも思い出す。

今思うに父は職場の仲間と飲む約束をしてしまい、子供のわたしが邪魔になったのに違いない。父のその時の気持ちも今のわたしには良くわかるのである。そしてきっとその晩は母にこっぴどく叱られたと思う。(笑)

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昨夕ブリギッテは帰宅後すぐに週1度の体操へ出掛けて行った。8時頃には終わるのだがその頃に電話があり「いま、迷子の男の子の世話をしているから少し遅くなります」という知らせ。彼女は帰宅してからその内容を話してくれた。

彼女が体操を終わって出てくると10〜11歳ぐらいの男の子が「ぼく、自分が今どこに居るかもわからない。Eierwiese まで行きたいんだけれどそこはここから遠いの?」と話しかけてきた。子供の足でそこまで行くのはちょっと距離があるので「どうしたの?」と訊いたら友だち3人で遊んでいて喧嘩になり友だち2人は彼を残してどこかへ行ってしまったらしい。

今の時期、午後8時というとミュンヘンはもうすでに暗い。頼りなさそうでまつげの長い可愛い男の子1人では最近の世情を考えるとなにかと物騒である。ブリギッテが「わたしの携帯を使って家に電話しなさい」と言っても「そんなことをしたらお母さんに叱られる」と断るので、「そんなことは絶対にないから。お母さんは心配してるよ」と言い聞かせて電話をさせた。

彼のお母さんは驚いて迎えに来ると言う。やはり心配していたようだった。ブリギッテは彼をお母さんと打ち合わせた待ち合わせ場所まで車で連れて行ってお母さんの到着を待った。その間彼と会話をしたのだが、
「世界で一番優しくて大好きな両親なんだ。もうしばらく怒られるようなことをしていなかったのに、今日は絶対に叱られるだろうなぁ」としょげかえっている。その様子がとても可愛らしかったそうだ。

待っていたお母さんはブリギッテへのお礼にワインを一本持って駆けつけ一件落着となった。

血液検査の結果

先日、高専の時の同級生が急性前立腺癌で亡くなったという知らせを受けた。ショックだった。彼もこれから楽しもうと思っていた人生を断ち切られて無念だったろうと思う。

わたしもこの辺で検査しておいた方が良いのかもしれないと思いだした。しかし前立腺の検査というのは肛門から指を入れられるので前立腺が肥大していたりすると強烈に痛いのと屈辱感を伴うのが嫌なのだ。

知り合いの医者にそんなことを話していたら「じゃあ、まず血液検査をしてみたら?それだけでも異常があるかどうかはわかるよ」とアドバイスをいただいた。それならと、昨日は家庭医を訪れて血液を採って貰い、今日の午後その結果を聞いてきた。

データを見る限り前立腺に異常は見られないということがわかって今はホッとしている。昨日も今日も血圧を測定したのだが、両方とも 110-80 ということで、これまで数年間服用してきた血圧降下剤は必要ないのでは、ということで明日から止めてみることにした。

コレステロール値も肝機能も正常な範囲に収まっているのは嬉しい。この夏も心おきなくビールを楽しめる。(^_^) 記録として貰ってきた血液検査データを下に添付しておく。

血液検査

音と臭い

ふとした臭いに出会ったとき、それを基点として一瞬にして何十年も前の風景が蘇ることは良く聞く話。しかし、それが音にもあるということを数日前に経験した。

You Tube で、ある日本映画を観ていたときに登場人物がアルミサッシの窓を開ける場面があった。アルミサッシの窓についているベアリング特有の「カラカラ」という音を聞いたとき、わたしの脳裏に鮮やかに浮かび上がった景色があった。

それはまだ芸大に入学する前の浪人中だったか、すでに芸大で学んでいた頃だったかは定かで無いが、その頃に住んでいた西武新宿線・小平駅から10分ほど歩いたところにある8畳一間のアパートから眺めた光景だった。

夏のまだ充分に暑い夕方にそのアパートに帰ってきてアルミサッシの窓を開け、留守中に溜まっていた部屋の熱気を逃がしたときの光景である。

その当時その辺はまだ畑が点々と存在していた地域で、どこかもの悲しい、そして乾いた風景だった。自分の将来が霧に閉ざされたように不透明で確たる希望も持てない、そんな時代だったことを思い出した。

アルミサッシの「カラカラ」という音はわたしにとって青春が持つ不安と、もの悲しさを感じさせる音なのである。

チェシュメ (トルコ) にもウォッシュレットが

時間の経つのは本当に速い。先月の今日はすでにチェシュメでの夏休みを過ごしていたのだった。チェシュメでちょっと驚いたのはトイレがウォッシュレットだったこと。

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上の写真のように、電動式ではないが形状は日本のウォッシュレットと基本的に同じである。ただ、温水が出たり便座が暖房されていたりということはない。ノズルも出たり引っ込んだりはしない。写真の左上段の水栓を回すとウォッシュレットから水が出てくるという単純な仕組みだ。使い心地は・・・・、不明である。わたしにはどうもうまく使いこなせなかった。(-_-;)

帰国時にイズミアの空港で公衆トイレを確認してみたらそこにもちゃんと付いていたからトルコではこれがスタンダードなのだろう。

ワサビとチョコレート

ブリギッテが「こんなのが売ってたよ」と買って来てくれた。わたしはミルクチョコレートよりもちょっと苦みのある方が好き。そんな色のチョコレートだったので試してみた。

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結果はわたしにはちょっと残念な味。ワサビというとどうしても刺身や寿司に付いてくるあのワサビ(ワサビ醤油)を連想してしまう。甘味+ワサビ味、というのがどうもわたしの脳内では消化しきれないらしい。老化(硬化)現象かな。

わたしはまた買うことはないけれど、これがドイツの顧客にどのように受け入れられるのかにはちょっと興味が有る。

朝顔

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今年も朝顔が咲いてくれた。起き抜けのまだシットリとした朝の空気の中で見る朝顔は心を優しくしてくれる。

昨年咲いた朝顔の種を保存していてそれを娘たちにも分けてあげた。わが家の庭の朝顔は今年は機嫌が悪くてまだチラホラとしか花をつけていないが、 Prien に住む次女の鉢植えはとても発育が良かった。しかしベランダが狭いのでと数週間前にわが家に持ち込んできたのが今、花をつけ始めている。

6月18日から行っていたトルコのチェシュメにも朝顔が咲いていてそこはすでに満開だった。下の写真は6月27日の朝に写したチェシュメの朝顔。地球上のどこにいても朝顔を見ると日本の夏を思い出す。

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仕事への姿勢・東西

数年前からTBSラジオのポッドキャスト「荒川強啓 ディ・キャッチ」を聴いている。今週7月15日はその中の「メキキの聞き耳」というコーナーでスポーツジャーナリスト生島淳さんが「メジャーリーグのオールスター・その裏側!」というテーマで興味深い数々をレポートしていた。

彼はメジャーの選手たちは自分の出番が終わってしまうとさっさと着替えて帰ってしまい、試合終了まで残ってはいない。ということを話していた。対する日本のプロ野球チームではチームプレーが大事ということでそういう事は無いらしい。そこで思い出したことがあった。

日本への引っ越し公演があると” Die Meistersinger von Nürnberg “とか” Lohengrin “とかの演目では日本人合唱に手伝って貰う。本拠地だとエキストラコーラスがその役を務めるのだがいろいろな事情でその人達までは日本へ連れていけない。

で、彼たちが驚いた顔でわたしに聞いてきたのは「皆さん、自分の出番が終わるともの凄いスピードで化粧を落とし、着替えて、われ先に帰ってしまうのですね。こんな素晴らしい公演の余韻に浸って仲間と話し合うということはしないのですか」ということだった。

野球のメジャーリーグと合唱団の共通点は1シーズンに120試合あるいはそれ以上、ミュンヘンオペラの合唱団もほぼそれぐらいの出番があることだ。正直に言って毎回余韻を楽しむということは無い。自分の出番が終わると皆一目散に家路を急ぐ。外から見ればそれが「家庭を大事にしている」と写るのかもしれない。

わたしも合唱団に入って最初の頃にある仲間に「家庭ってそんなに急いで帰るほど楽しいものなのか?」と問うたら「おい、君の家庭は大丈夫か?奥さんとの仲がうまくいってないのか?」と逆に心配されたことがあった。(笑)

ドイツの場合、仕事仲間が退社後に誘い合って飲食するという事はまず無い。わたしは最初それを物足りないと思ったが、慣れるとこれは快適であり、薄給の身には散財しなくて済むので嬉しいことでもあった。(笑)

これは欧米の徹底した個人主義と日本のそれとの違い、そして、仕事に向き合う姿勢の相違から来ているのだろう。

気になったこと

先日(2013年6月7日)、末娘の統計学・マスター号授与式に参列した。そこで壇上に呼び出されたアジア系の学生は中国人と韓国人だけで日本人学生は1人もいなかった。その時わたしはひたひたと水が足もとに押し寄せてくるような危機感を感じた。

日本の大学がドイツの大学より優れているのかどうかはこの際問題ではない。ドイツ人だけではなく近隣の国から若い人たちが集まって学んでいるという環境に日本人がいないということに、数年後の日本の方向性を心配してしまうのだ。

外国から母国日本を見るという体験、そして多くのヨーロッパ人学生の中に混じってヨーロッパの空気感を感じ取るということが若い人たちにはかなり重要なことだと思うのだ。これだけは頭の中で考えても身につかない。

ドイツに住んでいてもインターネットのおかげで日本のニュースは昔とは比べものにならないくらいに入ってくるようになった。わたしがそれを見たり聞いたりしていて気になるのは、日本在住の人の殆どの視線が USA に向いているように感じることである。

ヨーロッパに来て生活してみればすぐにわかるが、ヨーロッパ人にとって USA は数ある外国のひとつでしかない。日本の若者たちがヨーロッパでさまざまな国の学生達の中で数年間生活し学業を修めて帰国したとする。数年後にその中の何人かが日本で指導的立場に立ったとき、さまざまな国の指導者と同じプラットホームに立ち、多角的な視点でものを考え、判断することが出来るのではないかと思うのだ。

母国・日本がが将来、中国、韓国などの近隣諸国と対等に、柔軟に、そしてしたたかにつきあえますようにと願っている。

昨日のミサ

昨日は午後から夕方までお葬式にかかわっていたのだが、冷たい雨の降る寒い墓地でかなりの時間立ち尽くしていたり、そのあと場所を移しての長時間にわたるミサに参列したので、身体も心も疲れ果ててしまった。

雨の中の埋葬はよくあることだから仕方がないのだが、一番疲れたのはミサ。昨日のミサはプロテスタントのそれだったのだが、祈りの間に音楽が入るのはカトリックと変わらない。音楽家たちもちょっとひどかったのだが、加えて、神父の祈祷文を節をつけて歌う部分には参ってしまった。

神父たるもの、それが専門職であるのなら祈祷文をもう少しうまく歌う努力をしてくれないかと思ってしまう。あの調子で延々とミサをやられたらそれに参加している信者たちはきっと苦痛を感じるのでは無いか。無宗教のわたしにはそれを聞かされるのがとっても辛かったし、偉そうな顔をしてそれを続ける神父の人柄までが傲慢に思えて仕方なかった。

でも考えてみるとこれまで36年の間、ドイツで数え切れないほどのミサに参加しているけれど、努力しているなと思える声と抑揚を持った神父には5本の指で数えるほどしか出会っていない。聞き惚れるような声でミサを進行していったら参加している信者たちの信仰心も高揚されると思うのだが。

これまでで一番素晴らしかったのはローマのバチカンでラテン語で行われたミサ。この時は「この神父さん、オペラ歌手になってもいいんじゃないか」と思ったほど惚れ惚れと聴き入ってしまった。(笑)

でも、こんなわたしの不満はわたしが信者ではないということから来ているのかもしれない。幼少の頃からそんなものだと慣らされてきたら耳が麻痺してしまうのかも。信仰にはもっと大事なものがあると言われれば、無宗教のわたしは黙って引っ込むしかないのだが。

ひな鳥が迷い込んだ

昨日のことだが、半地下の部屋で iMac をいじっていたらその横の窓に小鳥の雛がパタパタ羽根を動かしているのに気がついた。口を大きく開けて明らかに餌を要求している様子。わたしを親鳥と間違えているのだろうか。

あまりにも可愛いからiPhone 4Sのカメラで撮影していたが、どうやら自力で飛ぶ力はまだないようだった。きっと何かの拍子に巣から転げ落ちたに違いない。それに気がついて園芸用の手袋を嵌めてから注意深くそのひな鳥を手の中に囲んで運び、わが家の垣根の中に戻してあげた。

しかしこのひな鳥が自分で巣を見つけてそこに戻るというのはちょっと無理なような気がする。かなりの確率で死んでしまうような気がするけれど、わたしとしてもそれ以上はしてあげられない。最後まで助けられないのは残念でちょっと後ろめたい気もするのだが、それが自然界というものなのだと自分に言い聞かせた。

今年は勝ったよ!

今日は恒例のエイプリルフール。ここ数年妻にやられっぱなしだったので今日こそはリベンジを、と朝起きたときから考えていた。結果は大成功!

作戦としては次の2点だった。

1.何気なく話を切り出すこと。
2.彼女が何かに集中していて働いている時を狙う。

今日は復活祭の月曜日で祝日である。今日計画していたブランチは3人の娘とパートナー、それに義母が加わるから総勢8人で食卓を囲む予定になっていた。ブリギッテは朝から台所に立ってその準備に余念がない。その隙を突いてわたしが

わたし:「しまった!昨夜、財布を “Parsifal” の衣装の中に入れたまま帰宅してしまったよ」
ブリギッテ:「あらっ、大変。それじゃあなた昨夜は無賃乗車だったわけ?」
わたし:「無賃乗車は検札に会わなかったから良かったけど、財布の中にはクレジットカード類も入ってるんだ。まずいなぁ」
ブリギッテ:「あなた、すぐに劇場の衣装係に電話しなさいよ。衣装が洗われてしまったりしたら大変よ」

ここで獲物が針に引っかかった手応えを感じてわたしには余裕が出てきた。

わたし:「でも、今日は4月1日なんだよね。」
ブリギッテ:「電話するのに4月1日でも、4月2日でも関係ないでしょう!」

とここまで来ても彼女は気がつかず真剣な表情。

わたし:「いやぁ、だから4月1日なんだよ、今日は」

と私が笑いながら言ったところでさすがに気がついた。彼女が持っていた布巾で頭を叩かれたが、まあ、それは許す。(^_^)

女性はパワフル!

日記に書いたように、昨日は夫婦で 雨の降る中を Prien に住まいを構えた次女を訪ねた。次女は9月にバイロイト大学を修了して Herren Chiemsee 湖畔の街 Prien にアパートを借り、あるクリニックに先週から勤め始めた。わたしは何もしないでブリギッテについていっただけだったが、彼女は朝からエネルギッシュ。その模様を記しておく。
その1
わが家の倉庫には親類から貰った自転車が数年間使わないまま入っていた。次女は自分の自転車を持っているのだが、恋人が来たときなど湖畔を一緒にサイクリングするのには2台必要だからとそれを持っていくことにした。わが家の車は2週間ほど前から次女が Prien に持っていって使っているのでわれわれは列車で行くしか方法がない。そして昨日はあいにくの雨降りだった。

ドイツの列車は5ユーロ払うと自転車を乗せても良いことになっていてそのためのスペースも取ってあるから問題はない。地下鉄も自転車持ち込みが可能なのでこれも OK。しかしわが家から地下鉄までの区間は自転車持ち込み禁止だからそこまでは自力で走らなくてはならない。

さて、昨日の朝、倉庫から出してきた自転車は埃にまみれていて、おまけにタイヤの空気が抜けていてペチャンコ状態。地下鉄の駅までは自転車でも10分は掛かるから着いたときにはずぶ濡れになるはず。わたしは
「今日は自転車を持っていくのを止めて次の機会にしようよ」と持ちかけた。返ってきた答えは
「わたしが雨合羽を着て片手に傘をさして地下鉄の駅まで乗っていきますから、あなたはあとでバスで来て下さい」
「しかしタイヤの空気が抜けてて、空気を入れてもどこまで持つかわからないよ」と私。
「空気が抜けたら止まってまた入れればいいわよ」
「でも雨が降ってるんだよ」
「平気、平気」
というやりとりがあり、私はバスであとから追いかけた。彼女がどこかで立ち往生しているのではないかと走るバスの窓から雨の降り続ける外を見続けていたが地下鉄の駅に着いてみると彼女がニコニコして手を振っている。話を聞いてみると一度だけ止まって雨が降る中でタイヤに空気を入れたそうだ。よくやるなぁ!

その2
ミュンヘンの中央駅から出るザルツブルグ行きの列車の自転車運搬用の箱に乗りこみ、ホッと一息。あとは Prien に着くまで本でも読んで座っていればよい。
発車間際にドカドカと50歳近辺のおばちゃんグループが乗ってきた。どうやら仲の良い友だち同士でザルツブルグへの旅行らしい。このおばちゃんたち、座るとすぐにおしゃべりを始めだした。これがうるさいのなんの!中に二人ほどけたたましい声で笑うおばちゃんがいて、誰かが何かの話を始めるとまずその二人が、そしてそのあと全員が笑い出す。初めのうちはそれを無視して本を読もうとしたのだが、これは無理だった。

本を閉じて彼女たちの話を聞いていると、他愛のないことが話題になっていて、あれでなんで笑えるのだろうと不思議。そこで思いついたのだが、あれだけ笑えるというのが女性の長寿の要因のひとつではないかということ。男同士のグループではこうはいかない。やはり「心の底から笑う」というのは長寿の秘訣なんだろう。8人のドイツのおばちゃんたちは骨格がたくましく、全員が確実に私より体重が多そうだったことを付け加えておく。

その3
次女の住まいを引き上げてきたのは午後3時45分。帰路は私がわが家の車を運転した。途中数度渋滞があったけれど、それほど時間も掛からずに夕方7時頃に帰宅。さすがのブリギッテも車の中では爆睡状態だった。(笑) わたしは久しぶりの運転だったから疲れて帰宅したあとは、 iMac で土曜日に録画しておいた Sportschau を Weißbier を飲みながら見始める。

私がグータラとしている一方で、彼女は台所で料理を始めた。明日(10月8日)は彼女のお母さんの82歳の誕生日で夕食をわが家で食べるのだそうだ。参加者はブリギッテの弟夫婦を入れて5人。今日(月曜日)はブリギッテも仕事があるので、勤めから帰宅してすぐに食べられるようにと、前菜のスープ、肉料理に付け合わせるシュペツレ、芽キャベツを料理し、デザートのムースショコラ、などを作った。そしてメインの肉料理の準備をして、私に「明日の16時半に忘れないでオーブンのスイッチを入れてね」と言い残して就寝。

彼女は今朝は6時前に起床。お母さんと街なかのカフェで誕生日の朝食をとるのだと8時前に出掛けて行った。
「今夜は夕食に招いているのだから、なにも出勤前の慌ただしい中をお母さんを連れて朝食に行かなくてももいいのでは?」と言うと
「誕生日は特別の日なんです!」と睨まれた。
とてもじゃないが私にはついていけない。(-_-;) 今日の16時半にはリマインダーをかけてオーブンのスイッチを入れるのを忘れないようにしなくては。

ビックリ!

日本からミュンヘンのわが家に戻ってきたのは一昨日(23日の夕方)だった。やはり疲れていたのか頭の芯がボヤ〜ッとしていたが、ステレオ装置の前に白い布をかぶせられたものが鎮座しているのにはすぐに気がついた。白い布を取って見るとそこにはなんと、Nationaltheater 観客席の椅子が

Nationaltheater の椅子は1963年に劇場が再建されて以来使われていたもので、今シーズンから新しい椅子にリニューアルされた。昨シーズンが終わってからその古い椅子を希望者に販売していたことはわたしも知っていた。

しかしその値段がわたしには高いと思ったのと、座り心地が余り良くない印象が残っていたので欲しいとは思わなかった。しかしブリギッテの考えは違っていたのである。

彼女曰く「あなたが長年の勤めを終えるのと時を同じくしてこの椅子も引退するというのは何かの因縁のような気がするの。これに座ってステレオを聴くのも良いものでしょ?」

というわけでわたしが日本に行っている間に手配したらしい。試しにと今日の午後、この椅子に座ってステレオ装置から流れてくる音楽を聴いたのだが、1時間ほどなら座り心地の悪さも気にならなかった。

彼女の言うのにも一理あるわけで、これからはせいぜい活用させて戴くことにする。

娘達からのプレゼント


昨夜の「お別れパーティ」も終わって、これでまた定年退職への心の準備が深まった。昨日、末娘に会ったときに「わたしたち3人の娘からです」と言ってカードとプレゼントを渡された。
写真を見て貰えば一目瞭然なのだがカードの表はアップル製品大好きのわたしにピッタリのデザイン。現役生活を終わってスリープ状態に入ったね、ということなのだろう。

カードを開けると左半分にわたしの眠っている顔と右半分に彼女たちの言葉。カードの上のベロを引っ張るとわたしの起きているときの顔になる。こういうものをわたしも幼い頃に作った記憶がある。

顔はわたしの写真から描いたのかと訊いたら、先日わたしが劇場から貰ってきたわたしのギプス頭部を参考にし、それに白髪頭を描き込んだものだと説明してくれた。これらは全部手作りのものなのでそれが嬉しい。

一緒に貰った小さな包みの中には “SEXY RENTNER” と書かれた車のナンバープレート状のものが入っていた。これは年金生活者になる寸前のわたしがセクシーだということか、それともセクシーな年金生活者になって欲しいという彼女たちの願望なのかちょっと分からない。どちらにしてもその方向に向かってこれから頑張るよ!(^_^)

ヘッドフォンの置き台


定年退職の日まで秒読みの段階に入ってきた。あと12日である。公演のほうは病欠者が出なければあと6回出ればよい。楽屋の自分が座っている机の上などもそろそろ片付け始めている。

劇場のメーク係の棚には合唱団全員の頭部を石膏でとったものが並んでいる。新しくカツラを作るときに使われるのだ。これを作るときには頭から石膏の溶けた液をピタピタと貼られていく間じっとしていなくてはならない。もちろん目はつぶったままだし空気は鼻の穴からしか入ってこない。もう何年も前の出来事だが、なんとも不快で不安な時間だった記憶が残っている。

退職するということで先日わたしの頭部を記念に貰ってきた。これをヘッドフォンの置き台に使おうというわけ。ヘッドフォンは使っていないときの置き場所になかなか困るものである。ただ置いただけでは人間が横座りしたときのようになんともだらしない感じとなってしまうのだ。

オーディオ専門店などに行くと人間の頭を形取った置き台を売っていてあれを買おうかなと思ったときもあったが、なんだか無機質で取り澄ました感じが気に入らなかった。しかしそれが自分の頭の形となればこれは愛着が湧いて面白いのではないか。(笑) しばらくこの形で使ってみようと思っている。

ドイツの老人たち

もう数年前になるが、妻と一緒に日本に帰国したときに彼女が面白いことを言っていたのを思いだした。

その時われわれは日本滞在のほとんどの部分を東京、京都といった都会で過ごしたのだったが、彼女の印象では 「日本では外を歩いている老人が少ないわね」ということだった。そういわれて思い返してみると確かに東京などでは杖をついて歩いているお年寄りはあまり見なかったような気がする。

しかしドイツは全くそんなことはなく朝夕の通勤時間を除けばかなりの老人が街中を歩いている。中には写真のように杖をついている人たちもいるがそれでも時にはうるさいくらいに元気である。(^_^;)

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新しい iPad を手にしてからブリギッテはどこへ行くにもそれを持っていくのだが、今日は Tram の停車場で彼女が撮したスナップ写真を見せてくれた。。2人の老女の声高な開けっぴろげな会話が聞こえてくるようななんともいい写真である。2人とも足が弱っているのだろうか杖を持ってはいるがなかなかどうして迫力満点である。

白髪の女性が持っている黒いビニール袋にはなんと “Madonna” という文字が!これに気がついたとき、わたしはたまらず吹き出してしまった。

それでも女性に較べたら街を歩いている男性の老人は少ない。女性の方が元気だというのは万国共通なのだろう。わたしは80歳、90歳になっても元気で街を歩けるような年寄りになりたい。(^_^)

SONY の崩壊による日本人の喪失感・・・小田島隆氏(2012年4月11日)

TBS ラジオのポッドキャスト「たまむすび」を聴いていた時にこんな話題があった。コラムニストの小田島隆氏が話していた内容は次のようなもの。

________________________________________________________________________彼がテクニカルライターを職業としていた当時から他社と異なって SONYの技術者は記者会見の時などには目線の高さがあった。圧倒的に高飛車だったけれど毅然としていてそれはそれで嫌な感じではなかった。しかしそれは高い技術力に裏付けられた製品の品質の高さで納得のいくものだった。

2000年代に入ってからはヒット商品がない。コンテンツ産業に手を出した結果、ものを作る社員よりもマネージメントを司る社員の方の力が強くなってしまったこともその要因である。
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ここからはわたしの感想である。
もう10年以上も前にSONYに陰りが見え始めたときにも「なぜ?」という話題が出たことがあった。そのときの記憶ではアメリカでの話であるがSONY販売店のサービスの低下と販売員の質の低下がとり上げられていた。例えば注文した製品がなかなか届かなかったり、故障のクレームを受けても高飛車な態度でユーザの使い方が悪いといわんばかりの対応もかなりあったらしい。この頃からSONYの陰りが始まったのだ。

これらはお客に接する末端の人たちが明らかにSONYというブランド力の間違った使い方をした典型である。すぐれた製品を作り上げた技術者だけに許される誇りをお客と接する販売店、販売員が自分の手柄だと勘違いしたからに他ならない。

この姿は振り返ってみると古代ローマ帝国以来のさまざまな国の栄枯盛衰と実によく似ている。SONYは滅びるべくして滅びるのだろう。わたしも学生時代から SONYの製品は大好きでそのユーザであることは誇りでもあった。そしてわたしが今大好きなのはアップルの製品群。だがアップルもいつかは SONYと同じ道を辿るような気がしてならない。