Fabio Luisi 氏、礼賛 


一昨日(6月16日)は午前と午後の2回、「運命の力」のオーケストラ合わせがあった。あらためて、指揮者 Fabio Luisi の素晴らしさを確認できて幸せ。こういうエントリをあげるのは「提灯記事」を挙げるようでちょっと恥ずかしい気もするが、良いものは良い! 

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とにかく、2時間半の練習の間、引き込まれるように彼の動きと、出てくる音に集中していた。わたしにとって、こんな事は滅多にあるものではない。テンポの変換時における彼の閃光のひらめきのような動きは、聴いていたわたしに驚きと共に安心感をも与えてくれる。一瞬のうちに変わったテンポは、そのフレーズがそのテンポでしか輝かないと思えるような説得力がある。「数学の難問を解き明かされたような快感。この問題の解答はこれしかない!という創造性を伴った確信」と言ったらいいだろうか。素晴らしい!

舞台に歌手達が立って演技を伴った時にどうなるかはまだわからないが、今日の練習では必ず歌手達に適切な、そして自然な Einsatz を与えていた。練習が始まって数小節オケを演奏しただけで、彼がこのオペラの隅々にまで神経を届かせていること、そして彼の頭の中には紛れもない彼独自のヴェルディの音楽が鳴り響いている事がまるで目に見えるよう。彼の振る棒のテクニックは彼の内面で鳴り響いている音楽を伝えるのに必要にして十分な効果を上げていると思う。決してはったりや、大向こうの受けを狙ったような指揮振りではない。カルロス・クライバーのような華麗な棒ではないのだけれど、彼の1つ1つの動きには必然性、納得性がある。もしかしたら、彼の棒は将来にはまた飛躍、展開して変化していくような予感さえ感じさせる。

速いバッセージはわたしたちが経験してきたものよりもかなり速いように感じるが、決して前のめりの、せかせかしたものにならない。歌手の呼吸というものを充分に理解していないとこうはいかない。最近バリアフリーという言葉をよく聞くが、彼の音楽には少々意味は違うがそんなものを感じる。どこにも無理がない。ワクワクするような躍動感と、一転してどこまでも澄んだ深い静かな湖の水面、とが交互に現れては消えていき、いつの間にか聴く者をその豊穣な快さに包み込んでしまう。この2時間半の練習はまさしく光のような速度で過ぎ去ってしまった。

午前中の音楽練習の最後は Rataplan の音楽だったのだが、彼の棒に掛かるとこれが生き生き、ノリノリ、という感じになり、最後の "pim" という高音一発のあとは歌っている自分が天に飛躍するような、高揚する快感があった。さすがにこのテンポだとオーケストラの管楽器の連中が必死だったのもおかしかったが。(^_^;)

このナンバーの前に Luisi 氏が、合唱を立たせたのだが、今日は全員スンナリとスクッと立ち上がる。下手な指揮者がこれをやると「なんで立たんとイカンのだ」と文句をつける奴が必ずいるものだが、この結果に今日はわたしも内心ニンマリ。

休憩になった時に彼の表情を見て少し気がかりだったのは、かなりグッタリとして、青ざめて見え、亡くなった Sinopoli 氏の疲れた表情によく似ていた事。以前の Götz Friedrich 氏の演出の時にはGiuseppe Sinopoli 氏が指揮したので、そのことがわたしの頭に残っていたのかもしれない。指揮という行為に全身全霊を注入したあとはこういう表情になるのだろうか。Luisi 氏にはこの先もずっと健康で素晴らしい音楽でわれわれを楽しませて欲しいと思う。これからのオペラ、特にイタリアオペラの新しい時代を創るのは間違いなく彼だ。

(後日談)
昨日(6月18日)の Schlußprobe の直前にエレベータの中で偶然に Liisi 氏と一緒になった。そこで、上に書いたように彼の表情が疲れて見えた事が気掛かりだったので、身体を大事にしてくれるようにと話した。彼の答えは「ありがとう、しかし、わたしは煙草も吸わないしお酒も飲まないし、恋人もいないから大丈夫だよ」と言う。(本当かどうかはわからない)(^_^;) わたしがそれに対して「最初の二つはそれでいいけれど、恋人はいた方がいいですよ。」と返したらカラカラと笑ってうまくかわされた。 

Posted: 2005年06月18日 (土) at 13:48 




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