ここに地終わり 海始まる(上・下) / 宮本輝著(講談社文庫) 


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「ドナウの旅人」の読後感が快かったので、続いて宮本輝の作品を読んだ。わたしの本棚にある「ハイジ文庫」の宮本輝の小説はこれであと一冊しか残っていない。勿体ないような気もしたが「読みたい!」という気持には逆らわなかった。彼の本を読んだあとは心がどこか素直になるのである。(^_^) 

この作品も「ドナウの旅人」と同じように210回連載の新聞小説として書かれただけに上・下に別れた長編となっている。作者の後書きの日付が1991年10月となっているから、それ以前のそんなに遠くない日に書き上げられたものだろう。

宮本作品にわたしが感じる大きな特徴は手紙文がメチャクチャにうまいということ。文章も内容もその巧みさに唸らされるのだが、その使い方が又、抜群に的を射ていて一直線にこちらの心に飛び込んでくる。それもその矢にグサッと抉られるというよりも、スッと貫かれてしまったという感じ。この物語も一枚の絵はがきから始まる。ヨーロッパ最西端にあたるポルトガルのロカ岬から、それまでの人生に疲れて追われるように旅をした梶井という男が出した絵はがきである。この絵はがきによって主人公である志穂子の結核が奇跡的に治癒してしまうという、これは小説ならではの筋立て。

しかし、設定が6歳から24歳までの18年間結核で入院していたということで、世間から隔離された少女の心にこの絵はがきが働きかけた力をわたしはどこかで信じてしまうようなところがある。どこかで読んで、うろ覚えなのだが宮本輝氏自身も結核で1年以上も入院していたのではなかったろうか。その闘病生活中に宮本輝氏が味わった不安、焦り、希望などの心の戦いがこの小説にも生かされているような気がする。わたしもわずか半年余り急性肝炎の治療で世間から離れていたことがあるが、闘病中の心理状態というものは独特である。宮本輝自身の闘病をこの作品に生かしたのだとしたら、その作家魂に敬服である。

この小説全編を通してわたしが感じるのはやはり「明るさ」である。真っさらな生地を持った志穂子という女性が退院後に巡り会った人達に助けられ、又は傷つけられながら、新しい自分をみつける心の旅を続けていくというのは読んでいて胸がわくわくする心地がする。心の旅ばかりでなく、物理的な旅もわずかながらこの本の中に出てくる。彼女に好意を感じて求婚する尾辻という男との金沢への旅、そして、最後の方に出てくる梶井との越前岬への旅であり、それがこの作品の重要な役割を占めている。

文庫本の解説に古屋健三氏が次のように書いている。
宮本輝にとって旅は自己発見に必要な契機であり、人は旅に出ることによって自己発見を深めていく。なぜなら、日常生活から離れることによって、普段は見えない自己の素顔が露わになってくるからである。

この言葉を自分に照らしてみると、共感を覚えるものがある。もうすぐ、わたしが日本で暮らしていた年数とドイツで生きている年数とが同じ数字になる。ドイツで家庭を築き生活している身だが、心のどこかに自分の基盤は日本ですごした生活にあるような気がする。現在ドイツにいるわたしは旅の途中であるような気がしないこともないのだ。日常に起こるどんな些細なことでも、気がつくとわたしの心の中では日本とドイツとの照らし合いが行われていて、それによって見えてくるものも多い。この小説が確とした結論を示さないで終わっているのは、わたしにとってある種の救いでもあった。
(2006年2月初旬読了) 

Posted: 2006年02月22日 (水) at 13:51 




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