花の降る午後 / 宮本 輝著(講談社文庫) 


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サラリとした読後感が得られる小説。読み進めていくうちに、これは新聞小説に連載されたものではないかな、と思いながら読んでいた。解答は最後までお預けにして読み終わったら、やはりそのとおりだったのでニンマリ。新聞小説をまとめた本というのはまるで凸凹道を行くようにヒョイヒョイと小さな山が出てくるのでなんとなくわかってしまう。 

小説の内容自体は「わたしの小説の中で、せめて一作ぐらい、登場する主要な人物が、みな幸福になってしまうものがあってもいいではないかと思い始めたのです」と作者が書いているとおりのハッピー・エンドです。わたしはハッピー・エンドが大好きですから、それはそれで嬉しいのですが、なんだか最後の段階で無理に作り出したハッピーエンドであることがみえみえで、そこのところが少し気に入りませんでした。読者というのはまことに勝手なものです。(^_^;)

主人公の典子には年下で画家の恋人が出来るのですが、その愛の過程の中で、典子が注文して彼に絵を描いて貰います。やっと出来てきた絵を見る場面は次のように書かれています。
「俺、ものになりそうかな」
「高見は同じ言葉を繰りかえした。不安でたまらないのだなと典子は思った。
「絶対、なるわ。絶対に」
力を込めて言い、部屋の明かりをつけて、もう一度、<雨の坂道>に見入った。どこかに素人臭さが顔をのぞかせてはいないかを確かめてみたのだった。おそらく音楽でも絵画でも、文学でも演劇でも、素人臭さをかけらでも感じさせるものは大成しない。典子は料理を通して、そのような考え方を自然に取得していたのである。六十号の<雨の坂道>には、どこにもそれはなかった。

この作者の意見には賛否両論あることだろうと思いますが、わたしはピカソを思い出します。バルセロナにはこぢんまりとした素敵なピカソ美術館があるのですが、1988年の夏そこを訪れたときに、展示されていた彼の少年時代の絵を間近に観ました。10歳にもならないころに書かれたピカソの簡単な絵なのですが、そこにはちっとも子供らしさ(素人臭さ)がありませんでした。あの年齢で彼はもう立派なプロの画家だったのだと、その時のことを思い出しました。(2005年2月17日読了) 

Posted: 2005年02月18日 (金) at 20:43 




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