長崎・3日目

木曜日・曇り / 最高気温8度

6時半起床。昨夜、オンラインで「軍艦島ツアー」を予約しておいた。朝起きてみるといい具合に日が照っている。しかし8時15分に窓口に行ってみたら「今日は海が時化っていますので欠航です」と無情な告知。期待していただけにちょっとショックだった。

1度ホテルに戻ってから気を取り直して今日のプランを再計画する。これは「じっくりと原爆関連の歴史を見て回れ」という天の意志だと解釈してそれに従うことにする。まずは浦上天主堂に向かった。ホテルからはけっこうな距離があるので今回初めて路面電車で松山町まで乗ってみる。古く、小さく、郷愁を誘うような路面電車だ。

今日は風が吹いていて朝9時過ぎの空気はかなり寒い。しかし、坂の多い道を歩いているうちに身体が温まってきた。浦上天主堂ではちょうどミサをやっていて,20分ほどそれに参加。日本語とドイツ語の違いはあってもミサの進行は殆ど一緒だった。そこを出てから「長崎原爆資料館」へ。資料館の中は全体に照明を落としてあって落ち着いた雰囲気だったが,生徒達の団体旅行が入っていて少し騒がしかった。ガイド役の人たちを見ると殆どがわたしよりも年配の方々で、多分ボランティアなのではないか。丁寧に生徒達に説明している。頭の下がる思いだ。

並んでいる資料を読んでいくとその底にはアメリカに対する怒りが感じられる。ずいぶん控えめに表現してあるが、もう少しキッパリと抗議の姿勢を見せても良い。長年ドイツに暮らしていて学んだことのひとつは「西欧人にははっきりと物言いをしなくてはいけない、そしてそれはお互いのために良いということ」。日本人の感覚で「ここまで言えば察してくれるだろう」などというのは間違いだ。日本人も間違いを沢山してきたし、西欧人たちもずいぶんひどいことをしてきている。そこをお互いに付き合わせて双方の歩み寄るポイントを見つけなくては。

そんなことを考えながら資料館を出て隣接する平和公園へと向かった。ここが「原爆落下中心地」である。特別な感慨は湧かなかったけれど「原爆死没者名奉安数・158,754人・平成24年8月9日現在」と書かれていてこの数字が来年にはまた増えていることは間違いないとガイドさんが説明していたのが心にとまった。

次にそこから道路を隔てたところにある「平和祈念像」のあるところまで行ってみた。ここはスペースもタップリと取ってあっていかにも慰霊の場という感じがして好感が持てた。いろいろな国からの慰霊碑もあったがその中に DDR からのものもあった。ここでしばらく時間を取って見て回った後再び電車で市の中心街へ。

長崎駅前で下車して明日の列車指定券を購入。軍艦島を訪問出来なかったのは残念だったが、それ以外の見るべきところは見終わったような気がする。滞在を1日延ばしてみたところで明日、海が静かになるという保証はない。問題なく指定券が取れたので今度は徒歩で街の繁華街へと向かった。

ちょうどお昼ご飯時でもあって、評判の「皿うどん」を食べてみたい。ようやく長崎の街の地形が飲み込めてきたのだが、ここは海岸からいちど急な丘を登って、その向こうに繁華街が拡がっている。長い背骨が途中に横たわっているようだ。いちど「めがね橋」まで出て、そこから右に折れて中華街へ向かう。時間にして30分ほど歩いた。そして教えていただいた「江山楼」を探し当てたらなんのことはない、そこは一昨日ちゃんぽんを食べた店だった。(笑) 迷わず「皿うどん・特上」(1,050円)を注文。うん、わたしもちゃんぽんよりはこちらの方が好きだ。量も充分にあってお腹がちょうど良い満腹感になった。

そこを出てから次は復元された「出島」の観光。とても丁寧に復元されていてその苦労が偲ばれたが,大いに楽しめた。これからもここが長崎観光の目玉のひとつになることは間違いない。ゆっくりと見て回ったらさすがに疲れてきて、寒さも強まったようなのでホテルに戻ることにした。ホテルの自室に入って一番先にしたのはバスタブに熱いお湯を貼って身体を温めたこと。そのあと目覚まし時計をセットして30分ほど遅い昼寝。

夕食はまた音大時代の級友と約束していたので「めがね橋」の袂で待ち合わせ。級友は今日も仕事が忙しかったとかでちょっと疲れた様子。橋のすぐ横の日本料理屋に入ってあれこれとおいしいものを食べ、話も弾んで22時頃のお開きとなった。級友は東京でのクラス会にもその距離と仕事の忙しさでなかなか出席出来ないでいたから,わたしの訪問を喜んでくれて昔話やら音楽の話などが尽きることがなかった。

長崎・3日目」への4件のフィードバック

    • 中村理恵さん、良かったですね。応援した甲斐がありましたね。(^_^)
      軍艦島、さあ〜、再び長崎に行くことがあるかどうか。

  1. 出島の復元、進んでるんですね。
    昔、そうとは知っていてもコンクリート護岸の「出島跡」を見に行って、やはり残念な気持ちがしたものでした。

    堺港の環濠都市も一部復元できないかなと思ったり。
    ワルシャワやドレスデンなども時間を掛けた復元・再建だし、単なる公共事業ではないわけですしね。

    • 堺の復元、夢がありますね。資料が残っていて出来るものならやって欲しいです。あの時代は魅力的ですよね。

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