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2010年10月14日

「博士の愛した数式」を読んで思い出したこと

昨日から読み始めた 「博士の愛した数式」/ 小川洋子著 を今日、読了した。この著者の作品は2年前の7月に 余白の愛 を読んでいて、その時に付けていただいたコメントで「博士の愛した数式」を知った。やっと読むことが出来て、期待通りの作品に満足している。数学に関してはひとつの想い出があるのでそれを書いてみることにした。

中学を卒業したわたしは全国に12校ほど出来たばかりの高専・工業化学科に入学した。わたしの家庭の経済的な状況がわたしを大学にまで進ませる可能性が薄かったのである。受験高校に進学したとしてもその先が見えなかった。そんな時に出来た5年制の国立高専というのは授業料も安かったし、自宅から通えたから、わたしにとっては闇夜にポッと灯った光だった。

1962年4月に15歳で入学した高専でわれわれの数学の先生として赴任されたのが26歳の 古田孝之先生 だった。この先生は「古田の不等式」を発見されたその人。まだ若く身体も大きくて文字通り生気みなぎるバリバリの人だった。

わたしの中学生の時の成績は学年(350人ぐらい)でいつも5番内には入っていたし、県下の新聞社主催による模擬テストなどではかなり良い点数を取り新聞に掲載されたこともあったから、「俺は出来る!」とちょっといい気になっていたところもあった。きっと嫌なタイプの中学生だったと思う。

そんな天狗になっていたわたしが、この先生に教わった最初の半年は、まさしくカルチャーショックというもので、彼の話すこと、書くことについていけず目の前が真っ暗になった。ある日の数学の時間に、黒板の前に呼ばれて「この問題を解いてみろ」と言い渡されたが、頭の中が真っ白でなにをすることも出来ない。業を煮やした古田先生はそんなわたしを横に突き飛ばして自分でサッサと解答を書き始めた。級友たちの目の前で、これはかなり屈辱だった。そして前期終了時に行われた試験でわたしの成績は29点。見事な赤点であった。

この古田先生はとにかく活動的な人で昼休みの校庭に自分で土俵を描き、生徒達と相撲を取るのが大好きだった。この時、大相撲は大鵬・柏戸の全盛時代である。彼が本気で学生を投げ飛ばすものだからだんだん相手をする学生がいなくなり、時々は同僚の英語の先生を捕まえて相撲を取っていた。わたしはその頃、食べ物に好き嫌いの多い 53Kg ほどしかないヒョロヒョロの学生だったから、いつも二階の教室の窓からそれを見下ろしているばかりだった。ところがある日、二階の窓を見上げた彼と目が合ってしまった。「君、下りて来てわたしと相撲を取ろう!」と言われて渋々彼と相撲を取る羽目になり、結果は嫌と言うほど地面にたたきつけられた。痛かった〜。

さて、前期に29点という屈辱的な赤点をとったわたしは、口惜しくて口惜しくてその年の夏休みは必死になって数学の本に食らいついていた。そして新学期が始まってしばらくしたある時「博士の愛した数式」に出てくる文章のように、それまで見えなかった一本の補助線が助けてくれたようにスッと視界が開けたのだ。

それからは彼の授業にも不安が無くなり後期の試験は 92点 という満足する成績を上げた。あくまでも偶然でしかないのだが、 29 → 92 というこの逆の数字をわたしはそのとき、美しいと思った。