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2010年10月16日

高専のこと

先のエントリ-------「博士の愛した数式」を書いて思いだしたこと、-------を書いた次の日に高専時代の級友(女性)からメールが届いた。いつもわたしのブログを読んでくださっていて嬉しいことである。引用することをお許し戴いた彼女のメールを挟みながら、あらためてあの時代の高専という存在についてもう少し書いてみたい。

高専が誕生してからまもなく50周年を迎えようしているが、高専そのものを知らない人も多いのではないかと思う。わたし自身も昨日 Wikipedia を読んでみてずいぶん知らないことがあることに気がついた。もし興味がありましたら高等専門学校 - Wikipediaを読んでください。

あの当時、高専が誕生した背景には新産業都市構想があったことも忘れてはならないので、それへのリンクも上げておきます。

さて、その級友から届いたメールには古田先生の授業について次のように書かれていた。まさしく同感。

高専に入ってまず驚いたのが古田先生の”数学“の”ものすごさ“。
カルチャーショックというか 中学時代のそれまでのは“算数”であって先生の授業は異次元のもの、私もついていけなくてショックをうけました。
先生はまた課題をとても文学的にドラマチックにすすめていって、最後見事に結論づける瞬間は“美しい“と感じ入ったものです。

わがクラスは40人で、女性は5人。彼女はその中の1人でしたが、次のようにも書いています。

高専に入って私の最大のカルチャーショックは男子学生たちの才能のすごさでした。無限の才能というか、中学時代には体験しなかった級友たちのきらめく才能に感服し、それは今でも変わらず 尊敬のまなざしでみています。

実は彼女自身がその「きらめく才能」を持った1人だったことを書いておきます。ちなみに高専の一期校は東北6県で平高専(のち福島高専)1校だけでしたから各県から優秀な生徒が集まりました。そのあとに続く文面も引用させていただきます。

高専が出来るので是非受験してみないかと先生が熱心にすすめて下さり5年間で大卒と同じ教育をするところで その後希望すれば大学3年に編入試験も受けれるということでした。
理科系の学校という大事な点を見落としましたし、15歳で進路がほぼ決まるというのはやはりちょっと無理かなとも後で悔やんだ時期もありました。
高専が出来ると知ったのは卒業3か月ほど前でじっくり考える時間もなかったように記憶しています。
数年後に高専卒業生にも多様な進路の道が整ってきましたけど 最初の頃の学生たちは本当に開拓者として自分自身で切り開く苦労を背負いましたよね。

今振り返ってみるとあの当時の担任の先生達にはこれはと思う生徒を高専に送り込めという、上からの強い通達があったのではないかと想像する。高専の同級生の中には大学へ進学するのに経済的な問題が無いと思われる者もいたのである。しかし、いざ入学してみると大学3年に編入ということは非常に難しいことであることがわかってきた。編入を受け入れてくれる大学がわずか数校しかなかったのである。それに失望して3年で高専を退学し普通の大学受験を志した級友も数人いた。わたしもある級友から誘われたが、その時わたしにはその選択肢はなかった。

当然、わたしにも15歳で将来の自分の道を決めてしまったということに 「自分の進む道はこれ一つだけではないんじゃないか」という漠然とした不安・不満はあった。それは学友達の誰もが持っていた悩みだったろう。それでも級友達はそれぞれの「何か」に向かってひたむきに励んでいたのだ。

「電気工学科」「機械工学科」「工業化学科」の3つのクラスの一期生の中には工科系という延長線上で奮起、努力し、ある大学の「宇宙物理」の教授になったものもいれば、大きく進路を変えて東京芸大・美術学部に入学してデザインの道に進んだものもいる。わが工業化学科の1人は特許をあつかう弁理士の道に進み日本弁理士会会長を務めた。そして今回驚いたのが次のニュースだった。

情報処理学会が日本将棋連盟に「コンピューター将棋」で挑戦状、清水市代女流王将vsあから2010の対戦であから2010が勝利しました。
米長さんに挑戦状を手渡したのが白鳥則郎さんで現在情報処理学会の会長さんです。
学会の創立50周年の記念イベントだそうですが、人類の英知の極みの将棋にコンピュータが挑んで・・・・という節目に同級生が立ち会っているなんて感激ですね。
固体物理の和田先生はあの世できっと喜んでいらっしゃるでしょうね。
時間があるとき「コンピューター将棋」とGoogleで検索してみて下さい。挑戦状も米長さんの返事も“粋“ですてきですよ。

この素敵なニュースを見つけたのでリンクを張っておきます。(^_^)
情報処理学会が将棋連盟に挑戦状 米長会長、「いい度胸」と受けて立つ - ITmedia News

補足しておくと白鳥則郎君はやはり高専の一期生で「電気工学科」に在籍していた学友である。彼も高専卒業後、並大抵の苦労ではなかったそうだが数年をかけ東北大学・大学院の受験資格を得て研究員の道を選んだそうだ。

わたし自身はと言えば、高専・工業化学科を卒業後、自分の進む道を探し続け、何人もの人に助けられながら1971年(昭和46年)春、東京芸大・音楽学部に入学し、オペラの道に入ってしまった。