週末は1人

10月31日(金)・晴れ/最高気温16度

5時半起床。今日から日曜日までブリギッテは弟、妹と一緒に義父の住まいの片付けをするという話になっていて、早朝に出かけた。わたしはそれに付き合っていつもより1時間早い起床。

義父が1人で住んでいたのは広い家でいろいろと溜め込んだ家具、書籍、衣類などを全て整理しなくてはならないのだが、とても一回や二回では片付かない量だというのはわたしも見ていて知っている。しかし、誰かがいつかはやらなくてはならない。やはり子供達がやるしかないのだろう。周囲の知人達に聞くと、葬儀なんかよりはこれが一番大変な仕事なんだそうだ。

ブリギッテを送り出してから気持ちの良い天気の中をウォーキングしてきた。10045歩・84分。今月は義父の死という大きな出来事があったからまとまって歩けなかった日が数日あって目標には達しなかった。

ウォーキングから帰宅してすぐにシャワーを浴びたあとまたまた街へ出て買い物。ついでに昼食も外で食べてきた。特大のシュニッツェルとビールも飲んだので帰宅してすぐにベッドに潜り込み1時間の昼寝。

目覚めてから iTunes Store で100円でレンタルしてあった映画を見る。このところ定期的に(週一回?)100円でレンタルできる映画があるのでそれを見逃さないでダウンロードするようにしている。(^_^)

いちおうご飯は炊いたのだけれどお昼にシュニッツェルを食べたので全然お腹が空いていない。サラミソーセージを魚に Weißbier を飲んだあと、炊きあがったご飯の上の部分だけをお茶碗によそってふりかけをかけて食べた。炊きたてのご飯は塩を振っただけでもおいしい。(^_^)

夜は久しぶりに1人の気ままな時間を満喫している。

またまた暗く寒い1日

10月30日(木)・曇りときどき雨/最高気温11度

6時半起床。今日は一日中薄暗く、湿った寒い日となった。もう冬だなと思う。末娘に頼まれて朝から彼女の住まいに。

末娘夫婦は居間に組み立て家具を購入して今日が配達の日だった。彼女も旦那も仕事で在宅できないので、わたしに白羽の矢が立ったというわけ。これからこんな用事が増えるのかもしれない。(-_-;)

家具を組み立てるのに2人の職人がついてきて彼達の作業が終わったのは10時50分。その一部始終をそばで見ていたわけだが、さすがにプロで要所を押さえた作業ぶりに感心。IKEAよりも良い感じ。

帰宅して炒飯を作って昼食。そのあと1時間の昼寝。別に身体を動かしたわけでもないのに妙に疲れた。

午後はレンタルしてあった映画を観始める。最後まで見ないうちにブリギッテを迎えに行く時間になって家を出る。

彼女は18時の終業後に買い物があるので迎えに来て欲しいということだった。明日から彼女は義父が住んでいたオルデンブルグへ行き、弟、妹と3人で大掃除をするのだそうだ。家財道具の大部分は捨てることになるのだろうが、これは考えただけでも気の遠くなるような作業だ。

3人の価値観もそれぞれだから取捨選択においてきっともめ事もあることだろう。わたしが考えても仕方がない。

自分の死後のこともそろそろ意識に入れて生活しなくてはいけないなと思う。出来るだけ物を持たない生活を心掛けよう。

今日も街へ出た

10月29日(水)・晴れときどき曇り/最高気温14度

7時起床。昨日に続いて今日も街へ出た。9時半頃に家を出て Max-Weber-Platz まで Tram に乗り、そこから現役時代と同じ道を歩いた。しかし今日の目的地は劇場ではなく日本総領事館。

今週の月曜日に妙な手紙が届いた。要するにお金を払え、そうしないと取り立て人を差し向けるぞ、という脅しである。まったく身に覚えのないことなので放っておくことにしたが、今回はメールではなく封書でわたしの住所に届いたというのがこれまでの例とは異なる。あまり気持ちの良いものではない。

こういう手紙がもしかするとミュンヘン在住の他の日本人の元にも届いているのではないかと考え、総領事館にいちおう届けておいた。

それを済ませてブリギッテの事務所へ立ち寄り、彼女が持って出るのを忘れた携帯を届ける。充電のためにコンセントに刺したまま忘れたらしい。(^_^;)

そのあと Marienplatz の Kaufhof に立ち寄り靴の敷き皮を購入。まだお昼前だったがお腹が空いていたので久しぶりに Rosenheimerplatz のケバブ屋さんへ。ボリュームタップリでおいしかった。

帰途は Tram でわが家を素通りして Grünwald まで乗り、友人が経営している文房具店で買い物。帰宅したときにはさすがに疲れていた。月曜日のケーキの残りでコーヒーを飲んだあと1時間の昼寝。

目が覚めてしばらくしてからウォーキングに出掛けた。そろそろ暗くなりかけの時間だったので短いコースを取る。午前中も Max-Weber-Platz から総領事館まで歩いたのでしっかり歩きは合計で9486歩・82分となった。

ブリギッテは今夜も残業で帰宅は9時半過ぎ。彼女の好きな「茄子の味噌炒め」を6時頃に作っておいたのでそれを温めて食べてもらった。

寒い!

10月28日(火)・曇り/最高気温7度

6時半起床。昨日と同じように今日も一日中曇り空。昨日と違うのは最高気温が7度という一桁だったこと。

朝食のあと10時半頃からウォーキングに出掛けたけれどジャンパーの下にユニクロのウルトラライトベストを身につけていても寒かった。この時間の気温は6度だったこともある。9709歩・82分を歩いて帰宅。ほとんど汗はかかなかった。

昼食を食べたあと1時間の昼寝。昨夜はよく眠れたけれど昼寝も気持ちが良かった。

午後3時過ぎに家を出て久しぶりに街へ買い物に。買うものが決まっていたので疲れはほとんど感じなかった。しかしいつもながらミュンヘンの中心地 Marienplatz は人出が多い。バイエルン州の学校が今週は秋休みだということもある。

ついでに Apple Store に立ち寄りiPhone6と iPhone 6 Plus を触ってきた。 iPhone 6 Plus は想像していたほど巨大ではなかった。

帰宅したのは夕方の5時頃で30分後にはもうすっかり日が暮れてしまった。冷蔵庫の中の残り物で夕食を作ることにする。

ブリギッテから電話があり、今日は仕事が長引くという。夕食は20時過ぎという遅いものになった。明日からはまた最高気温が二桁台に戻るようだ。

長女の誕生日を祝う

10月27日(月).曇り/最高気温11度

7時起床。昨夜の眠りは最低。何度も目が覚めて、暗闇の中ではネガティブな方向に考えが進んでいってしまう。 iPhone に入っている楽しいポッドキャストを聴いて気分を紛らわせていたら、ところどころ眠っていたようだった。

ブリギッテはいつもの時間に出勤。それから私は曇り空を眺めながらグータラしていた。朝食のあとWebをつらつらと眺めていたらドイツの冬時間への変更の記事が目に入った。驚いたことに、この夜はかなりのドイツ人が睡眠不良を訴えているのだそうだ。たった一時間の違いなんだけれどそれに反応する人が多いということなのだろう。面白いことに夏時間に移行する夜はそういうことはないらしい。

今日は朝から鬱陶しい曇り空で気分も晴れなかったのだが、このままではイカンと思い11時半頃からウォーキングに出かけた。二日間歩いていなかったので用心して今日は7561步/64分で止める。

帰宅してシャワーを浴び、うどんを作って昼食としその後1時間の昼寝をしたらようやくいつものペースが戻ってきた。

しかし、今日は長女の32回目の誕生日で、彼女はちょうど義父の葬儀で帰省していたから我が家でお祝いした。ブリギッテは仕事で留守だったがチーズクリームケーキを作っていってくれたので長女と義母と3人でお茶をする。

IMG 0002

夕方6時半からイタリア料理店に予約を入れておいたので6時ごろに家を出た。仕事を終わって合流したブリギッテと末娘夫妻、義母、長女の6人で長女の誕生日を祝う。イタリアレストランは初めて訪れたpizzeria europa。イタリア人の従業員たちがテキパキと働いていて気持ちが良かった。味の方も値段を考慮したらなかなかのもの。6人で飲んで食べて140€はリーズナブル。

さあ、明日からはいつもの日常に戻れるはず。(^_^)

今日から冬時間

10月26日(日)・晴れ/最高気温13度

6時半起床。夏時間が終わって今日から日本との時差は8時間となる。起床してからまずしたことは時計合わせ。目覚まし時計ラジオ、電子レンジ、オーブンなどは手動で変更しなくてはならない。電子レンジとオーブンは取り扱い説明書を引っ張り出してそれを見ながらの作業となった。こういうのも電波で変更になってくれると助かるのだが。

日曜日の今日は例によって義母をまじえて10時からのブランチ。今朝は3人の娘たちと次女の彼も加わって7人。昨日の葬儀の模様を振り返る会話で終始した。

ブランチのあと、わたしと娘3人それに次女の彼も加わって今日が最終日の Auer Dult へ出掛ける。いろいろな店をひやかして帰宅したときにはかなり疲れていた。

その間、ブリギッテと義母はもう一度昨日の墓地に行って贈られた花輪などを確認して来た。あとで礼状を書くときに書き漏らすことが無いようにと云うことらしい。

ブリギッテが焼いた Waffeln でお茶を飲んだあとわたしは1時間の昼寝。目が覚めたときには次女と彼がレーゲンスブルクに帰ろうとしているところだった。

今夜は昨日の葬儀でオルガン演奏をしてくれた奏者の演奏会がミュンヘン市内の教会であるので、それを聴きに行く予定にしていた。しかしブリギッテの疲れが目立つのでそれを思いとどまらせ、代わりに末娘夫妻に行ってもらう。

これから気をつけないといけないな、と思うのはブリギッテが何でもかんでも取り込んでしまうこと。彼女ももう若くはないのだから物事を取捨選択しなくてはいけない。気のいい彼女はなんでも引き受けてしまいがちだから、わたしが悪者になっても断れるものは断らなくてはと思う。

夕方になってもまったく空腹を感じないので今夜はチーズを肴に Weißbier を飲んだだけで夕食は抜き。

葬儀

10月25日(土)・晴れのち雨/最高気温11度

6時15分起床。今日は10時から義父の葬儀だった。日本の葬儀がどういう形で執り行われるのかを、わたしは詳しく知らない。今日はブリギッテとわたしが取り仕切る形だったから思っていた以上に大変だった。

昨日までで葬儀の段取りの手はずは整えておいたので、今日は参列者と一緒にその流れに乗っていれば良いと思っていたのだが、事はそう単純には運ばない。親戚、知人などが入れ替わり立ち替わり自分の前に立つのでその応対ですっかり疲れてしまった。

10時から墓地に付属する会場でプロテスタントの神父が死者を送る儀式が1時間ほどあった。ここが天井の高い石造りの建物だから時間がたつにつれて足もとから冷気が伝わってくる。わたしは用心してヒートテックのタイツを穿いていたがそれでも震え上がった。

それが終わってから墓地まで一同が歩く。今回は日本と同じく火葬である。50人ほどの参列者がひとりひとり墓穴に花びらを撒いたりしたあとで遺族に挨拶を述べることになるので、ここでも立ったまま30〜40分ほどの時間が過ぎた。

それが終わってようやく暖かいレストランに入っての食事である。この寒さだったからわたしは自分のことよりも参列者のお年寄り達の体調が気がかりだった。そしてこの食事がまた長い!久しぶりに顔を見る親戚達で話が弾むのか、皆、なかなか腰を上げようとしない。終わったのは4時間後。

そのあと帰宅したのだが、娘たちとパートナー、もちろん未亡人となった義母、そして従姉妹などがついてきてまたまた15人くらいの集まりとなる。わたしは頭がボーッとなるくらい疲れていたので失礼して寝室に入り1時間以上の睡眠を取る。

夕食は何も用意していなかったので種類の異なる Pizza を7枚レストランに注文し、それを受け取ってきて食べた。お開きは21時半頃。この頃になってようやくわたし以外の家族も疲れが出てきたようだった。

葬儀というのは本当に疲れるものだというのを身を持って知った1日。

2日ぶりにウォーキング

10月24日(金)・曇りときどき晴れ/最高気温11度

6時半起床。朝のうちは曇っていたが時間がたつにつれて空が明るくなってきた。ブリギッテは今日は休暇を取って明日の葬儀のこまごまとした準備。彼女はその前に週末の買い物に出掛けた。

昨日、一昨日は悪天候のために歩けなかった。その気持ちを引きずったままで今朝はそれほどの意欲も湧かなかったのだが、明日は歩けないのがわかっているので意を決して歩くことにした。

森の中の道に入った途端に路上には木々から落ちた小枝があちこちで目についたが、しばらく歩いたところで一本の大木が倒れていた。文字通り根こそぎ倒れたようで根っこの高さは2メートルは超えていた。やはりかなりの嵐だったようだ。

IMG 4326

IMG 4328

いつものコースを歩いて 11373歩・96分

わたしの帰宅と同時にブリギッテも買い物から戻ってきた。昼食は「白身の魚とブロッコリ」。そのあとでわたしは1時間の昼寝。

夕方、昨日修理を頼んでおいた靴を受け取りに Rosenheimerplatz まで。夕方から3人の娘たちが明日の葬儀に参列するために来訪。次女と彼はわが家に、長女は末娘宅に泊まることになる。

ブリギッテが夕食を作って賑やか。わたしは外食にすればいいのにと思うのだが、ブリギッテにとっては楽しそうで、こうした時間がストレス解消になっているようだ。

今日も最高気温6度

10月23日(木)・雨/最高気温6度

6時半起床。昨日と同じように今日も最高気温は6度しかなく、寒かった。風はかなり治まったようだが、新聞の見出しに昨日はずいぶん被害が出たようなことが書いてある。

朝食のあとブリギッテがプリンタのインク切れを教えてくれた。もうじきカートリッジ交換をしなくてはと知っていたのだが予備のカートリッジがあるはずだと思っていた。

しかし黒色インキの型番が記憶と違っていて、街まで買いに行くことになってしまった。わたしの使っているキャノンのプリンタは5つのインクカートリッジが組み込まれているがそのうちの一つでも空になるとプリントができないような仕組みになっている。

こんな天気の中をそのためだけに街へ出るのも癪なので、その他の用事も作って家を出た。気に入って履いている靴のかかとがすり減ってきていたのでそれを修理に出した。そのあと Isartor の近くに引っ越した MIKADO という日本食料品店で数点買い物をする。

帰宅して昼食のあと少し昼寝。家の中は日中にもかかわらず薄暗くなっていて昼寝にはちょうど良い暗さだ。そのおかげかよく眠れた。

夕方から久しぶりにLPを2枚ほど聴く。そろそろカートリッジを買い替えないといけないかもしれない。

夕食は冷蔵庫の中の野菜を使ってブリギッテの好きな「ソース焼きそば」を作る。タマネギ、長ネギ、人参、キャベツ、生姜を切り鶏の胸肉を加えた。家庭用鉄板焼き器でそれらを炒め、今日買ってきた焼きそばを入れ、オタフクの焼きそばソースで味付け。これだけでは寂しいので前もって「キュウリの酢の物」も作っておいた。

ブリギッテは土曜日の葬儀の準備があるので明日は休暇を取った。明日から来客もあってまた気ぜわしい数日になる。

10月22日(水)・雨/最高気温6度

6時半起床。なんだか一気に冬に突入したかのようなお天気。最高気温6度というのは明け方5時ごろの気温で、日中の最高気温はなんと4度だった。おまけに風も強く庭の木々が揺れていた。これはもう、嵐と呼んでも良い。

こういう日に森の中を歩くのはかなり危険であるので今日はスッパリとあきらめた。風さえ吹かなければ傘を差してでも歩けるのだけれど。

なんだか一日の生活の中に大きな穴が開いたみたいで、一日中何をすることもなくダイニングキッチンに座り続けた。

けっきょく、電子書籍を読んだり SNS を拾い読みしているうちに夕方になってしまった。幸いにも切符をいただいていたので夜は久しぶりのオペラへ。この悪天候だから普段だったら気が進まないのだが、今日は気分転換になって嬉しい。

ブリギッテと行くつもりにしていたのだが、彼女は土曜日の葬儀の準備で何かと気ぜわしいし、たまたま末娘はまだ休暇中なので彼女と行くことになった。

19時半開始で終演は21時20分ぐらいだったので集中して聴くことも出来て楽しかった。しかし劇場への行き帰りは吹きつける風と雨が寒かった。本当に久しぶりにさしている傘がお猪口になるのを経験した。

Die Sache Makropulos (マクロプロスの秘事)を観る

久しぶりのオペラ劇場。今日はあいにく朝から冷たい雨と風が吹く寒い1日。一日中家の中にこもっていたので夜に外出できるのは嬉しくもあった。しかし夕方家を出たときには小さな嵐と言っても良いほどのお天気。

このオペラ、私は全く知らない。ヤナチェクのオペラの中にこの題名のものがあるのは知っていたがこれまで全く関心がなかった。あらすじなどはこちらのサイトを読ませていただいた。感謝。

オーケストラが鳴り始めた一瞬「あぁ、ヤナチェック」だと感じた。この作曲家独特の色が空間に響いた。

短いオペラである。19時半に始まって終わったのは21時15分。もちろん休憩はなし。アリアらしいものは無くほとんど Sprechgesang と言っても良い。それだけに主役を歌った Nadja Michael の個性にこのオペラの成否が掛かっていた。

その意味で彼女を起用したのは正解。歌唱も良かったが、現在のソプラノ歌手であれだけのスタイルを持っている人は見つからないだろう。その他の歌手達もそれぞれの役割を立派に努めていた。

かつての同僚である合唱は最後の5分間ほどの出番。このオペラも男声合唱だけで女声合唱は出ていない。この場面だったら女声合唱だけでも良かったのにと思える。これからの作曲家には是非とも女声合唱だけのオペラを書いて欲しいと思ってしまう。オペラ劇場の男声合唱団は明らかに性差別を受けている。(笑)

22.Oktober 2014(Mittwoch)

19.30 Uhr · Nationaltheater

DIE SACHE MAKROPULOS

Preise K, € 132 /115 /95 /74 /- /- /- /10

Musikalische Leitung:Tomáš Hanus
Inszenierung:Árpád Schilling
Bühne und Kostüme:Márton Ágh
Licht:Tamás Bányai
Produktionsdramaturgie:Miron Hakenbeck
Chor:Sören Eckhoff

Emilia Marty:Nadja Michael
Albert Gregor:Pavel Černoch
Vítek:Kevin Conners
Krista:Tara Erraught
Jaroslav Prus:John Lundgren
Janek:Dean Power
Dr. Kolenatý:Gustav Beláček
Ein Theatermaschinist:Peter Lobert
Eine Aufräumefrau:Heike Grötzinger
Hauk-Schendorf:Reiner Goldberg
Kammerzofe Emilias:Rachael Wilson

Bayerisches Staatsorchester
Chor der Bayerischen Staatsoper

末娘の来訪

10月21日(火)・雨のち曇り/最高気温18度

6時半起床。昨夜は寝室の窓に吹きつける雨音で時々目が覚めるほどの悪天候だった。その雨と風が午前中一杯続き、ウォーキングはできそうもない。

天気予報では11時頃から快復するということだったのでそれを期待してMacをいじりながら待った。

わたしが長年使っている iPhone 4s は最近発表になった iOS 8 にはアップデートしないつもりで今日まで来たのだが、webのいろいろな記事を見ていて「まあ、良いか」と思い直した。

動作が遅くなるのは眼に見えているが最近は iPhone 4s はポッドキャストを聴くか電話の授受ぐらいにしか使っていない。この際だからと「工場出荷時に戻す」という方法をとってアップデートすることにする。

現在の iPhone 4s の内容を MacBook Pro 15 にバックアップしてから作業開始。少し時間は掛かったけれど問題なくアップデートできた。結果は・・・・、やはりかなり動作がもたつく。一呼吸どころではなく二呼吸ぐらい遅れて反応する。しかし、これで新しい機能を使えるようにはなった。

天気予報の通りに11時を過ぎると空が明るくなり始めて雨も止んだ。銀行に行く用事を思い出してまずそれを片付け、いったん帰宅してから昼食。そのあと着替えてウォーキングに出掛ける。いつものコースを快調に歩いて11145歩・93分

シャワーを浴びて汗を流したら急に眠気が襲ってきた。安楽椅子の上で50分ほどの昼寝。目が覚めてからシャツ5枚のアイロン掛け。

ブリギッテは末娘と街で落ち合ったらしく彼女を伴って帰宅。末娘夫婦は2年半前に結婚式を挙げたのだが、その時には彼女のケーキ作り修行が始まっていて新婚旅行に行けなかった。最近になって修行も一段落ついたので2年半遅れの新婚旅行をスペイン領のテネリフェ島 で2週間過ごし、昨夜帰ってきたのだった。

夕食のあと旅行中に撮った写真を見せてくれた。夜になってまた雨が激しく降ってきたのでわたしが車で送っていった。

庭の芝刈り

10月20日(月)・晴れ/最高気温22度

7時起床。9時に友人と久しぶりに会って歓談。しばらく見ないうちに少し太ったような。

家に戻ってきてすぐにウォーキングに出掛けた。途中で義母宅に立ち寄り昨夜の料理の残り物を届ける。マッシュポテト、ザウワークラウト、ソーセージ2種というもので彼女の好物だそうだ。その後森に入りいつものコースを歩き帰宅。12624歩・109分だった。

庭の芝生がまた伸びているので、少し疲れてはいたがそのまま芝刈りの作業をする。芝の上にはもうしっかりと落ち葉が拡がっていて秋に入ったことを告げている。その後ようやくシャワーを浴びて汗を流した。

4時過ぎから安楽椅子の上で遅い昼寝。50分ほど眠ったようだった。ブリギッテは意外に早く6時半に帰宅。ご飯は電気釜でタイマーを仕掛けておいたのであとは豚肉と野菜炒めを作るだけ。キャベツ、人参、ピーマン、タマネギと豚ロース肉をサッと炒めた。今日は少し手抜きだったかな。もう一品何かあってもよかった。でもおいしかったのでそれで良しとする。

明日からどうやら天気が崩れるようだ。

多分、今年最後の素晴らしい天気

10月19日(日)・快晴/最高気温24度

7時起床。今日は素晴らしい天気の一日だった。気温も24度まで上昇。でもたぶん、これが今年最後の上天気の日だろう。

例によって10時から義母をまじえてのブランチ。その後、台所のあと片付けなどをしていたらあっと言う間にお昼になってしまった。

午後、あまりの天気の良さにブリギッテのお供で森への散歩に出掛ける。彼女は途中で急に血糖値が下がったのか、10分ほどベンチで休んだ。帰宅してお茶。その後は2人とも短い昼寝。

夕食はブリギッテが作ったが、わたしはあまりお腹も空いていないこともあり食が進まなかった。マッシュポテト、ザウワークラウト、ソーセージ2種。

マッシュポテト、ザウワークラウト、まではいいのだが今夜はソーセージが一つはレバー詰め、そして Blutwurst (Blut とは血である)。ドイツに住んで37年になるがこの Blutwurst はいまだに拒否反応が出る。名前からおどろおどろしているし、見た目もどす黒い血の色なのだ。

反対にブリギッテも日本の食べ物で拒否反応を示すものがある。それは「カツオの塩辛」。見た目がネコの嘔吐物にしか思えないのだそうだ。言われて見れば確かにそう見えなくもない。

まあこの点ではお互いさまで引き分けということである。

Odysseusが冬眠

10月18日(土)・晴れ/最高気温20度

7時15分起床。今朝もまた妙な夢を見て目覚めが悪い。朝食のあとブリギッテは義母を伴って恒例の週末買い出しへ。

わたしはウォーキング。途中で通行止めになっている部分があり少し回り道。11963歩・102歩を歩いて帰宅。今日はそれほどの疲れもなし。シャワーを浴びたあとメールチェック。ここでもうお昼の時間だ。

お昼を過ぎた頃から素晴らしいお天気になってきた。この間からそろそろ亀のOdysseusを冬眠箱に入れなくてはと思っていた。見てみると彼は気持ちよさそうに日光浴。しかし身体全体が泥まみれである。これはこのところの寒さで地中に潜り込んでいたのが今日のお天気でまた出てきたためだろう。

夕方になっていざ冬眠箱へ運ぼうと思ったら彼が見当たらない。ブリギッテと2人で捜したら土を掘り起こしたような場所があったのでそこを掘ってみると5cmほどの深さに彼がいた。ミュンヘンの冬は厳しいからこの深さでは冬眠は無理。掘り出して地下の冬眠箱に入れた。これでOdysseusとは来年の4月頃までお別れである。

夕食は来週の土曜日に葬儀を行う墓地近くのレストランへ出掛けて試食。埋葬のあと参列してもらった親戚、知人達に昼食を振る舞う予定なので、レストランとの打ち合わせである。なかなか感じの良いレストランだった。出す料理、人数、時間などを決めて帰宅。

レストランのテーブルの上にビールの値段表があったのでiPhoneで撮ってきた。何年かあとになって比較すると面白いかも。

写真

義父が死んで11日が過ぎた

義父が亡くなってから今日でもう11日が過ぎた。介護中はいろいろとあったけれど、この11日の間に、義父への想いが再びポジティブな方向に向かっていて自分でも驚いている。人間の心の構造というのはそういう風にできているのだろうか。

彼がわが家に突然やってきた9月21日の夜にわたしは「こりゃ、エライことになったぞ」という気持ちで少々パニクっていたのだ。インテリで自分を律する彼の生活ぶりには一目をおいていたが、いざ一つ屋根の下で一緒に暮らすとなるとこれはまた別物である。

第一印象は「いまにも死にそうなことをブリギッテもベティーナ(義妹)も言っていたが、この元気さだったら楽に年を越すんじゃないかな」というものだった。

しかし、1週間を過ぎる頃から義父はピタッとものを口にしなくなった。水分は取るのだがそれもごくわずかである。そこから急激に彼は衰弱していった。ときおり口にするのは「この状態から回復の見込みがないのなら、もう、死んでしまいたい」「わたしはいつ死ねるのか?」というもので、そのたびにわたしは「お父さん、人間、そう簡単には死なないものだよ」と答えた。

彼の心臓はかなり弱っていて彼を診察した保険会社の女医も「普通の人の心臓はドクッ、ドクッと言う鼓動が聞こえるのだが、義父の心臓音はザーッという音で鼓動は聞こえない」というもの。

このせいだろうか、両足からは水分がにじみ出てきて包帯を巻いていても数時間後にはその包帯がぐっしょりと濡れるようになった。いったん退院してきたあと自宅で転び怪我をした右腕の上腕部からは血が混じった液体がにじみ出てきてこれも止まらない。家庭医の話ではこの原因が全て心臓の弁の不具合から来ているということだった。

9月が終わろうとする頃から義父は嘔吐したくて指を喉の奥に差し込んでもなにも出てこないという症状を呈するようになってきた。胃から胃酸がこみ上げてきているのだろう。嘔吐するときの「グエェ〜」という不快で大きな音が昼夜を問わず出るようになり、わたしとブリギッテは花を持って上の階に住む住人に謝りに行った。

嘔吐はしたいがなにも出てこないという症状が出てからしばらくして義父は自分の足で歩くことができなくなり、その2日後に彼は亡くなった。上の階の夫婦(Bernhard, Evi)にはそれほどの迷惑を掛けなくて済んだ。

ブリギッテの3週間の休暇は10月8日で終わろうとしていた。そのまま義父が生きていたとしてもわたし1人ではどうしようもない。数日の経験でたった62Kg しかない義父の身体が如何に重いものであるのかを思い知らされていた。亡くなる前の2日間は下の世話もするようになって、これはわたし1人では無理だと思った。

いろいろと手を回して10月7日から入院させる手はずがついたその前夜に彼は亡くなった。10月6日、23時25分。不謹慎なことを書くが、残されたわれわれにとってはこれ以上のタイミングは望めなかったろう。

ブリギッテと2人でで死亡通知を書く医者、葬儀屋、その他もろもろの連絡も済ますことが出来、ブリギッテも予定通り10月9日から出勤出来るようになった。

今思うと義父は死を覚悟して自ら絶食したのではなかったかと疑うこともある。あまりにも彼の死のタイミングがわたしたちの生活を邪魔しないものであったからそう思うのだが。

しかしそれはわたしの思い過ごしかもしれない。彼は少なくともあと数年間は生きたい、そしてそれは可能であると思っていたはずだから。

彼の生活のリズムが崩れた始まりは7月末に義母のためにオルデンブルクの浴室改造をし、壁に穴を開けるために電動ドリルを持って階段を昇っていたときに起きた事故だった。

彼としては自分の妻がそんなことを要求しなければ、電動ドリルを持って階段を昇ることもなかったろうし、転落することもなかったと考えたのではないか。そうでなくてはそのあとの義母への対応が理解できない。

義父と義母をオルデンブルクに見舞った義妹夫妻は義父が義母に対してかなり強い攻撃的な口調と険悪な態度だったと伝えてきた。彼としては事故の責任を彼の妻に負わせたかったのだろうか。

「こんな事故が無ければわたしはあと数年は健康で生きていられたのに」という不満だ。それが彼の妻のもとではなく娘の家で死にたいと決めた原因ではないかとわたしは思う。

義母はときおりわが家に見舞いに来て午後の数時間ベッドのそばに座っていたが2人が会話をしている様子はなかった。義母が帰ったあとにホッとしたのか、彼女を非難する独り言をブリギッテが聞いている。彼はもっともっと長生きしたかったのだろう。決して平安な心での安楽な死ではなかった。

肌寒い

10月17日(金)・雨のち曇り/最高気温15度

7時起床。朝からかなり本格的な雨が降り続け、それに伴う風もけっこう強かった。午前中のウォーキングは諦める。

午前中は家の中の整理と台所の片付け。昼食は炒飯を作って食べる。けっこううまく出来た。

正午を過ぎた頃から雨も風も止んだようなのでウォーキングに出掛ける。用心して傘を持って出たが途中から陽が射してきたのでそれは嬉しい誤算になった。11405歩・96分を歩いて帰宅。

昼寝をするには時間が中途半端なので今日は昼寝は無し。

夕方から「肉じゃが」を作り始める。本来なら豚肉を使うのだろうが冷凍庫の中にあった鶏の胸肉を使った。この方がアッサリして良いかもしれない。

写真 2

ブリギッテは6時半前に帰宅。3週間の休暇のあとはやはり心身共に疲れたようだが明日から週末と云うことでホッとした様子。

夜は外食

10月16日(木)・曇り/最高気温19度

7時起床。昨夜からわかっていたことだが、ブリギッテは今朝は4時起きして早々に出勤。どうしても片付けなくてはならない仕事があったらしい。わたしは4時に鳴った彼女の目覚まし時計の音で1度目が覚めたが、そのあとまた眠ってしまった。まあ、こんなことは1年に1度あるかどうかということで、USA との時差の関係でそうなってしまうのかも。

わたしは1人で朝食をとったあと義母への届け物を済ませがてらウォーキングへ。用心して傘を持っていったがその必要は無かった。10756歩・93分を歩いて帰宅しすぐにシャワーを浴びる。だんだん汗をかくことも無くなり、ウォーキングのあとには身体を暖める目的でシャワーを使うことになる。

昼食のあとは安楽椅子の上で少しまどろむ。

夕方は、先日からブリギッテが食べたいと言っていた Currywurst を食べるために家を出る。これはドイツの代表的なB級グルメで、わたしはそれほどおいしいとは思わないのだが、きっと日本人がラーメン好きなのと似たようなものなのかもしれない。

日本で云うフランクフルトソーセージを焼いてその上にカレー粉の入ったケチャップをドカッとかけて食べる。付け合わせはたいていの場合はフライドポテトとである。ミュンヘンでもおいしいと評判の Bergwolf というお世辞にもきれいとは言えないお店でいつも食べることにしている。今日はかなり辛いと感じた。

帰宅してインターネットのアップルのイベントを見る。今夜はアップルから新しい iPad Air 2 と iPad mini 3、Mac mini、Retina Display 搭載の iMac などが発表された。特別に買いたいものは無い。

いつもの日常に戻ったかな?

10月15日(水)・曇りのち晴れ/最高気温18度

7時起床。朝のうちは曇り空。今日は午前中に義父のために借りていたアラーム機器を Die Johanniter が取りに来た。10時〜11時の間に来るという通知だったがドイツのことだからきっと遅れると思っていたら時間通りに来てビックリ。

先日からベッド、車椅子、シャワー用の椅子、そして今日のアラーム機器の返却が済んで義父を介護していた痕跡が一つづつ無くなっていく。嬉しいような寂しいような妙な気持ちだ。

その後は知人に送る義父の死亡通知を印刷したものが届くことになっていたので待機。これも12時頃には届いた。

昼食のあとでいつもなら昼寝をするのだが、今日は各部屋にしっかりと掃除機を掛けたりしていて眠気が吹き飛んだ。

午後3時半頃からウォーキングに出掛ける。昨日とは逆回りのコースを取って11091歩・93分を歩いて帰宅。今日はいつもより疲れを感じた。それもシャワーを浴びたらスッキリ。

夕食は「キュウリとアンチョビの酢の物」「ジャーマンポテト + 目玉焼き」と簡単なもの。

抜けるような青い空

10月14日(火)・快晴/最高気温20度

7時半起床。グッスリと眠って目が覚めたら7時半近く。こんなに長い時間、気持ちよく眠れたのは久しぶり。就寝前にグラッパをひっかけたからかな。

昨夜の夕食が遅かったせいかまったくお腹が空いていない。紅茶を飲んだだけでウォーキングに出掛けた。家を出たのは8時45分くらいだったがこの時間でも空は真っ青、雲ひとつ無い。気持ちよく歩いて帰宅。11447歩・98分

久しぶりに肉をタップリ食べたくなり Dalmatiner Grill に行くことにした。お腹を空かしておきたかったのでそれまではバナナを一本食べただけ。

12時過ぎに Tram の中で読もうと文庫本を持って家を出たのだが、空のあまりにも美しいのに見とれていて Max-Weber-Platz まで車窓から青い空を見続けた。

昼食時間は少し過ぎていたがお客はみんな中庭で日光を浴びながら食べている。わたしもそれに習って座り Balkan Teller(数種類の肉の盛り合わせ)を注文。ビールは SPATEN Helles 500ml 。

おいしく食べたあとは腹ごなしにとしばらく歩く。帰宅してからすぐにベッドに潜り込んで40分の昼寝。適度な運動と満腹感で気持ちの良い眠りだった。

夕食は久しぶりに麻婆豆腐を作る。豚のひき肉を買っていなかったので、冷凍庫の中の豚肉を解凍して包丁で叩いてひき肉もどきにする。付け合わせはキャベツの千切りとトマトのサラダ。

IMG 4313

昼食に飽食したのでわたしはお腹が空いていなかったがブリギッテがおいしく食べてくれた。

週の始まりは曇り空

10月13日(月)・曇り/最高気温19度

7時半起床。一日中曇り空。9時から10時の間に義父の介護用にと借りていた「車椅子」と「浴槽内で使う椅子」を引き取りに来るという連絡があった。こういう時にドイツは時間通りに来ることはまず無い。これだけで午前中のウォーキングは諦めた。そうしたらなんと9時半に玄関のブザーが鳴った。珍しいこともあるものだ。

時間がポッカリと空いてしまったので葬儀を執り行ってくれるプロテスタント教会の神父のもとに手紙を届けに行くことが出来た。

昼食には久しぶりにうどんを作って食べる。今日は試しにチーズをトッピングとして使ってみたがとろっと溶けたチーズが意外といける。しょうゆ味とはなかなかの相性である。

その後はグッスリと昼寝。起きてから各部屋に掃除機を掛ける。16日間、下の部屋のソファーベッドに寝ていたのでその部屋は念入りに掃除機を掛けた。思っていた以上の綿ぼこりが部屋の隅に溜まっていた。

夕方6時に仕事を終えるブリギッテを迎えにいって、郊外にある大型家具店へ車を走らせる。最初の数日、われわれのベッドを義父に提供していたので、この際だからベッドを新調しようと思った。

しかし、なかなかこれといったものが見つからず、今日はなにも買わずに帰宅。現在は客用のマットレスを敷いて寝ているので、特別急ぐことでも無い。じっくりと検討して決めることにした。

夜はまた義父の「死亡通知」の宛名書き。彼が亡くなってちょうど1週間。

体調、戻る

10月12日(日)・快晴/最高気温20度

7時半起床。目が覚めたら7時半近く。気持ちよく眠れた。すぐに起きて紅茶を煎れて飲む。日曜日なのでブリギッテはまだ起きてこない。

10時から例によって義母を迎えてのブランチ。外は気持ちよく晴れている。あと片付けを終わってからわたしはテラスに座って本を読み始めた。しばらく振りに心理的に落ち着いた感じ。

ブリギッテは義母を送っていって帰ってきてからも親戚、知人に出す義父の死亡通知の宛名書き。義父は通知を出すべき友人たちのリストを作っていなかったためにブリギッテが彼のアドレスブックを見ながら選んでいた。これはなかなか大変な作業である。わたしが死ぬ前には残された家族の迷惑にならないように準備しておかなくてはと思う。でも「言うは易く行うは難し」かな。

素晴らしい快晴だったのでブリギッテが森への散歩に出掛けたいと言う。日曜日の午後とはいえ森の中を女性1人で歩くのは危険だからわたしもついていった。5995歩・53分を歩いて帰宅。これで彼女も気分転換になったらしい。

午後もブリギッテはまたアドレスブックとにらめっこでときおり義母に電話をして尋ねたりしていた。わたしはまたテラスで読書。一瞬だと思うけれど気持ち良さに意識が遠のいた。(^_^;)

夕食は外で食べようとブリギッテと決めていたのだがお目当ての日本料理店は日曜日が休業日。それではと他の店も探してみたら軒並み休業。けっきょく今夜もわたしが作ることになった。あり合わせのものでまず「冷や奴」「タマネギとひき肉のカレー炒めを具にしたオムレツ」昨日おいしいと食べた「キャベツの千切り」と変わりばえのしないメニュー。しかし昼食抜きだったからお腹が空いていてとてもおいしく感じた。

食事が終わってからわれわれの寝室を義父が寝ていた部屋に戻す。しっかりと換気しておいたので気持ち悪さは感じない。ただベッドは新しく買うつもりなのでそれまでは床にマットレスを敷いて寝ることにする。来客用のマットレスも使ってそれぞれ二枚重ね。柔らかすぎないといいのだが。来週早々にベッドを選びに出掛けなくては。面倒だけれど大事なこと。

体調、絶不良

10月11日(土)・曇り/最高気温20度

7時半起床。4時半頃に悪夢で目が覚めた。なんと、かなりリアルに小ではなく大の方を漏らした夢だった。まだ義父の下の世話をしたことがトラウマになっているようだ。それからずっと眠れなかったがいつの間にか眠っていたようだった。

それが原因なのかはわからないが一日中めまいを感じていた。

ブリギッテが週末の買い出しに行ったあとわたしはもう一度ベッドに入って昼寝。今日はそれでも目まいが治らなかった。

14時から近くの教会(Emmauskirhe)で元同僚の追悼ミサ(プロテスタント)があって出席してきた。彼はわたしより一歳年下。素晴らしくいい声の持ち主だったがビールが大好きで結局アルコールに負けた。63歳で早期退職して年金生活に入ったのだが、今年の1月に亡くなった。66歳だった。

彼はアメリカ人だったので今日の追悼ミサは英語で執り行われた。歌劇場合唱団の半数くらいが参加して
・Ave verum corpus,(W.A.Mozart)
・Lacrimosa/Requiem (W.A.Mozart)
を歌った。ミサの後ケーキとコーヒーのもてなしがありわたしはコーヒーだけを飲んで帰宅。

また、今日は15時からこのアパートに住む人たちの懇親会を兼ねてわが家の庭先で集まりが予定されていた。ブリギッテもその発起人の1人だったから当然参加するはずだったのだが、義父の死ということがあったので欠席。さすがに彼女もそれに出席する気持ちは無いようだった。

夕方になってもわたしの体調不良は復活せず。原因として義父がわが家に来て、彼にわれわれのベッドを明け渡してから、今日までソファーベッドで寝ているせいもあるかもしれない。このソファーベッドが硬いのだ。(^_^;)

義父が使っていたベッドをまた組み立て直して使うのは衛生上からも心理的にも躊躇している。結局新しいベッドを買うことになるだろう。マットレスは数年ごとに取り替えてはいるけれど、枠は30年以上も使ったベッドだからかなり年季が入っている。買い替える良い機会かもしれない。

義父にと用意した安楽椅子も肘掛けの部分に彼の腕からしみ出した血液などが付着しているので、これも来週は捨てるつもりだ。今回初めて経験したのだが、人間の心臓が機能低下すると足や腕から液体がにじみ出てくるのだ。義父はわが家にいる間、一日に1度は濡れたシャツとズボンを取り替えていた。

こういうことが全てすっかり片付くにはまだ時間が掛かりそうだ。心理的な面もあるのだが、体調不良はそれが終わるまで続くのかもしれない。

疲れが抜けない

10月10日(金)・晴れ/最高気温22度

6時半起床。ブリギッテは5時前に起床して6時頃には家を出ていった。今日は夕方に義父の葬式を司ってくれる神父と相談することを約束したので早朝出勤だそうだ。それにしても早い。

1人で朝食をとったあとウォーキングに出掛ける。今日は昨日よりも少し長い距離で9828歩・85分。それほど気温が高くないせいか汗はほとんどかかなかった。

ここ数日はアイロン掛けするような状況ではなかったので、洗濯物がかなり溜まっていたのを昼食前に片付ける。わたしとブリギッテのシャツが9枚、ズボンが一本、布巾とテーブルのランチョンマットが多数。さすがに最後の方は嫌気がさしてきた。でも片付けたあとは気持ちがいい。

昼食のあと眠くならないうちにと庭の芝刈りに取りかかる。先週はかなり気温の高い晴れた日が続いたので芝も元気よく伸びていた。これで今日の家事仕事は終了。

午後4時近くから iTunes でレンタルしておいた映画「Shall we ダンス?」を見始める。これは義父の看護が始まる前にレンタルしておいたもので¥100の格安価格だったもの。テレビを義父の部屋としていたところから元に戻したときにレンタルしておいたのを思いだした。あと10日で期限が切れるところだった。

ブリギッテは神父との話し合いが終わって18時頃の帰宅。それから冷凍しておいたラザーニャを食べて夕食とする。彼女も昨日、今日と働いて疲れたことだろう。わたしもまだ疲れが抜けないのかどんよりとした澱のようなものを腰のあたりに感じる。今日は早寝する。

短い介護経験から得たこと

1.基本的に個人での介護は無理がありすぎて絶対に家族の誰かを不幸にする。
2.年齢を重ねたら健康なうちに然るべき時点で介護センターに入所出来る準備(蓄え)が必要。
3.介護保険はしっかりと掛けておくべき。
4.公的に利用出来る制度は積極的に利用すべし。
5.本人が望まないのに入院させ延命させるのが幸せとは思わない。

ブログをしばらく休止した理由。

今となってみればわずか16日間の介護で義父は亡くなった。正直な感想はよいタイミングで亡くなってくれたというもの。わたしの人間性を疑われるような事を書くがこれが本音である。

今日から全てが以前通りに回転し始めた。義父を引き取ってからも毎日日記は書いていた。しかし、その内容がだんだん暗い方向へと引きずり込まれていき、1週間後の日記は愚痴が多くなってきた。こんなものは誰も読みたくはないだろう。

介護をすることになったと書いたときに多くの知人、友人から「頑張って!」「身体を壊さないように}という励ましの言葉をいただいた。ありがたいことである。しかし介護の時が進んでいくと、それらのお言葉に返事を書くのがつらくなってきた。それらの言葉によって救われるということは決して無いからである。

このあとに読んだ本でそんなわたしの気持ちにピッタリの場面がでていたので引用しておく。

(引用開始)
それにしても、会うごとにどの友人にも「どう、落ち着いた?」と訊かれるのには、留美子は閉口した。父親の不幸な事件のショックから立ち直ったかーという慰藉の言葉には違いないのだが、そのつど、さりげなく平然を装ってみせるか、もっともらしく深刻ぶってみせるか、存外、難しいものである。(p.298)
(引用終わり)

励ましてくれたコメントへの返事がだんだん遅くなったりする自分が卑小に思えてそれがまた自分を苛んだ。こうしてネガティブ・スパイラルに落ち込んでいくのだという自覚があった。これからあとも介護をすることになった知人、友人がいたら何も言わずにそっと見守って上げたいと思う。

出口の見えないトンネルの中に自分がいると自覚するのはつらいものである。

汗ばむほどの快晴

10月9日(木)・快晴/最高気温26度

6時起床。久しぶりに明け方に足が吊って目が覚めた。かなり痛かった。今日からまたブログを再開する。

義父が10月6日、深夜に亡くなった。自分の足で立ち上がれなくなった次の日に93歳の生涯を閉じた。最後の二日間はうわごとを言う状態が続き、ずっと枕元に付き添っていたブリギッテに手をさすられ、頭を撫でて貰いながら息を引き取った。わが家に来てから16日目の死である。

9月21日(日)にわが家に来たときにはわたしが想像していたよりも元気で、この状態だと問題なく年を越しそうだな、と思ったのだが途中から食物を受け付けなくなり、それからの衰弱が速かった。

ブリギッテは3週間の休暇を取っていて、今日からまた仕事に出掛けなくてはならず、そのあとはわたしが日中の看護を引き受けることになるので大いに不安だった。わたし1人での看護は肉体的にも無理だと思っていたのだ。

それで義父が生きていたら昨日から彼は近くの病院に入る手続きをしてあった。この病棟は病気を根治することが目的ではなく痛みを和らげて苦しまずに死を迎えられるようにという治療法だ。Palliative Care というもので日本語に直すと 姑息的治療 という妙な名前だ。癌患者の末期などに入院してもらうようだ。

それが計ったように10月6日に亡くなり、7日、8日と死後の手続きなどを終わりブリギッテは今日からいつものように仕事に出掛けることが出来る。なんだか不思議なほどの段取りの良さだった。

ブリギッテが出勤していってからわたしも以前のようにウォーキングへ。ここ数日はウォーキング出来なかったので今日は用心して8339歩・71分で止めておいた。

朝から素晴らしい天気となり気温もどんどん上昇していく。午後2時半頃に義父が使っていたベッドを引き取りに来た。その後念入りに掃除機を掛けて窓を全開にして空気を入れ換える。死後3日目になりようやく異臭が抜けたようだ。

その後 Rosenheimerplatz まで出て床屋で髪を切ってもらう。義父の介護で髪を切る時間が無くてずいぶん伸びてしまっていたのをサッパリと切り落とした。理髪師はイラク人で彼らの髪の毛も硬いから日本人の髪の毛を切るのは慣れたものなのだろう。12€とリーズナブルな料金で(洗髪は無し)仕上げも満足のいくものだった。しかし首筋から背中に掛けてチクチクするので帰宅してすぐにシャワーを浴び洗髪。

ブリギッテはいつもより遅い19時半頃の帰宅。次女は明日でミュンヘンの研修が終わるので職場にケーキを焼いて持って行くとかでブリギッテと同時に来訪。腹ぺこの2人のためにわたしが焼きそばを作って食べさせる。

また夜中に足が吊るのは嫌なので、今夜はマグネシウム入りのカプセルを飲んで就寝する。

義母の誕生日

10月8日(水)・晴れ/最高気温20度

7時半起床。朝起きてまだ別の部屋に義父の遺体が横たわっているのはなんとも落ち着かないものだ。日本の気候だったらそろそろ異臭が感じられる頃かもしれない。死後30時間以上過ぎているわけだから。

朝食のあとブリギッテはこの地区のプロテスタントの神父に電話をし、葬式を取り仕切ってもらうことをお願いする。日取りを決めたり何かと手間の掛かることでけっこうな長電話となった。

10時過ぎに義母、義弟夫妻、義妹の4人が来訪。午後に義父の遺体を葬儀屋に引き渡すので運び出される前にもう一度顔を見ておくため。その前に11時に葬儀屋が来て事務的な話し合いが始まる。墓地はどこで、葬儀はどこで執り行うか、献花、死亡通知、音楽、などの打ち合わせ。

ドイツでも葬儀屋に丸投げするとかなりの出費になるので、自分たちで出来ることは葬儀屋任せにしなかった。葬儀屋は思うとおりに稼げなくてきっと内心ガッカリしていることだろうと思いながら、ブリギッテがテキパキと打ち合わせをしているそばで静観していた。

家庭医が書いてくれた死亡届けに重大な間違い(生年月日)があってわたしが家庭医まで走るという1幕もあった。

そのあと食事となる。義妹が既に義母宅で料理しておいたものを持って来てそれは始まった。今日はなんと義母の84歳の誕生日なのである。

しかし、わが家の別室に自分の夫の遺体が横たわっているのに、自分の誕生日を祝えるという神経がわたしには不可解である。ドイツ人にとって誕生日というのはそんなに大切なものなのだろうか? 

ブリギッテにわたしの考えを言うと母自身から「今年は止めておく」とか「日を改めて」とかの申し出が無い限り自分からは言えないと言う。わたしはそのへんがとても腹立たしい。「あなたの夫の最後を看取って一日しか経ってないわたしたちに、今度は自分の誕生日を祝って欲しいってか?」と怒りをぶつけたい気持ちだった。どう考えてもわたしには納得出来ない。

死ぬときは妻のそばではなくブリギッテの介護で死にたいと言っていた義父の気持ちが納得できたような気がする。夫婦であり続けるというのは難しい。

棺を持って遺体を引き取りに来たのは2人の屈強な男性。ちょうどスープを食べ終わったあとだったので食事はもちろん中断。

彼達の1人は死ぬ間際に自然に外れてしまった上顎の入れ歯を元通りにはめ直してくれて、遺体にこちらで用意した衣類を着せ、髪を梳かして棺に入れてくれた。当然のことではあるが実に礼儀正しく親切に扱ってくれる。数年前に見た映画「おくりびと」を思い出した。

さすがにこのあとでは全員食欲を無くしたのか残りの食事は夕食にという事になった。(エッ、今日は結局夜までブリギッテの家族と付き合うことになるの?)

そうは言いながら用意して来たアップルケーキとバウムクーヘンで午後のお茶となる。グッタリ疲れたわたしはそのあと下の部屋で40分のタイマーをセットして昼寝。

目を覚ますと次女が来ていた。彼女が来るといつも場の雰囲気が明るくなるのが精神的に救われる。

夕食は昼に食べなかった料理を食べる。今度は次女を加えて7人。わたしはあまり食欲は無し。食べ終わったあとで新聞に出す死亡広告と手紙で出す死亡通知の文章、レイアウトを義父の3人の子供達が協議。これがなかなか決まらない。しかしわたしの口出すところではないので静観。

皆が帰ったのは22時少し前。まだ後始末が残っているがこれで一段落ついた感じがする。ブリギッテはちょうど今日で3週間の休暇が終わり、明日から通常勤務に戻る。彼女は本当に良くやったのでもう少し休ませてあげたい。しかしそうもいかないのが現実だ。

亡くなったあとも大変

10月7日(火)・晴れ/最高気温22度

7時起床。昨夜は死んだ人が同じ家の中に横たわっていてちょっと怖いような気がしたけれど不思議なことにグッスリと眠ることが出来た。朝食を済ませてからさまざまな人、場所、役所、医者に電話連絡を取る。昨夜、義父が亡くなったのが深夜だったからあえて義母には知らせなかった。伝えたとしたら彼女は昨夜眠れなかっただろう。

義母を迎えにいって戻ってくると次女が来ていた。さんざん涙を流したあとらしく真っ赤な目で鼻をグズグズとしている。孫達には孫達の義父の思い出があるのだろう。

10時に家庭医が来て義父を診断し死亡証明書を作ってくれた。彼も「病院での死でなくて良かったですね」と言ってくれる。葬儀社にも連絡を取り、遺体は明日のお昼に引き取りに来て貰うことにする。今夜から明日に掛けて義父の息子、娘が義父の死に顔を見に来るのでそれまではこのままにしておきたい。

次女は午前中に休みをもらってきてくれたが午後からの仕事に出るということで昼食のあと帰っていった。わたしは疲れて午後から1時間の昼寝。グッスリと眠った。目が覚めるとDarmstadtから義妹が来ていた。

夕方、昨日尿瓶とオマルを借りた病院に行って返却し丁重にお礼を言う。

夕食時にはまた義母と義妹、そして次女が来訪し5人での夕食。まあ、仕方ないのだけれど昨夜まで義父の死にかかわっていたわたしとしてはもの凄く煩わしい。今回の義父の介護と死からはいろいろなことを学んだ。

それでも全員疲れているのは確かで、22時過ぎのお開きとなった。ホッ!

義父が死んだ

10月6日(月)・曇り/最高気温14度

早朝6時過ぎにダイニングキッチンの床の上で寝ていたブリギッテに起こされた。義父のオムツを取り替えるので手伝って欲しいという。昨夜に続いて2度目の経験である。義父の身体を横向きにさせて汚物を拭き取らなくてはならず、義父の身体を横にしたまま支えていなくてはならない。右、左と交換して横にして拭き取ったあとは新しいオムツをさせる。2度目なので少し慣れたが独特の臭気だけは容赦なく襲ってくる。もう、1週間ほども食物を口にしていないのに便というのは出るものだ。今日は一日中その臭気が鼻の周りにまとわりついてそれから逃れられなかった。

9時頃にヘルパーさんが来て全てを手際よく処理していってくれたあとでようやく心が落ち着く。そのあと家庭医の処へ行って「尿瓶」「吸い飲み器」「オムツ」そして夜中に静かに眠れるための薬(これも効くのかどうかは分からない)の処方箋を書いてもらって薬局へ。

同時に花屋さんに立ち寄って鉢植えの花を贈り物用に包装して貰う。このプレゼントは義父の眠る部屋の上の階の夫婦へ。夜中に苦しくて叫ぶ義父の声がきっと聞こえているはずだから昨夜と一昨夜は彼達もきっとよく眠れなかっただろうと思う。そのお詫びの印である。

昼はブリギッテと交代で昼寝をして昨夜の寝不足を取り返す。午後はまた義母に来て貰って義父のベッドわきに座っていてもらう。午後4時頃にまた義父のオムツ交換。そのあとでわたしは薬局に注文していたものを受け取りに。

6時過ぎにヘルパーさんが来てもう一度オムツ交換をし、義父の面倒を見たあとで帰っていった。

夕方7時頃にブリギッテの弟が見舞いに来訪。1時間ほどで帰っていったが義父はかなり弱っていて1人息子が来たこともよく認識していない様子だった。

実は午前中に手続きをして明日から入院させることにした。歩けなくなってから2夜の経験でわれわれ2人の力では介護が難しいということを知ったから。加えて今週の木曜日(10月9日)からブリギッテは職場に戻るからそのあと日中に介護するのはわたし1人となる。これは体力的にもむずかしい。

さまざまなツテを辿って近くの病院に1つ空きがあることが分かり運良くそこへ受け入れてもらうことになった。ここは病気を根治することが目的ではなく痛みを和らげて苦しまずに死を迎えられるようにという治療法だ。Palliative Care というもので日本語に直すと 姑息的治療 という妙な名前だ。癌患者の末期などに入院してもらうようだ。

9時過ぎにもう一度オムツを替えてあげてわたしは下の部屋に就寝。ブリギッテはどうやら今夜が父親との別れだと感じているようでベッドのわきに椅子を置いて眠る。義父の様態を観察していると、わたしも今夜がその時かなと思う。

寝ようかと思ってもう一度義父の様態を見ると上の歯全体がグラグラしているのがわかった。どうやら義父の上の歯は総入れ歯でそれが顔全体が縮んだためにひとりでに外れてしまったらしい。われわれもどうして良いのかわからなかったから知人の医者に電話をしたところ(23時過ぎ)入れ歯は取り外しても良いという事でその通りにした。歯が無くなると人間の顔ってずいぶん印象が変わるものだ。

さて、わたしがパジャマに着替えてベッドに入ったところで父の様子を診ていたブリギッテが「父が死んだ」と知らせに来た。23時25分。

自力で歩けなくなった

10月5日(日)

先ほど日付が変わって現在は真夜中の0時半。義父の憔悴振りが目立ってきて、先ほどはトイレに行きたいと言う彼をブリギッテとわたしが2人で介添えした。手押し車を使っても彼1人でトイレまでの数歩を歩くのはもう無理な様子。

ブリギッテは今夜は義父のベッドわきに椅子を置いて、そこに座って夜を越すと言う。ちょっと無理な姿勢で長続きはしないように思う。わたしも何かあったときにブリギッテを助けてあげるつもりでダイニングキッチンの食卓に座っている。しかし0時半を過ぎて少し眠くなってきた。

午前1時を過ぎた頃に自分のベッドへ入って眠る。目が覚めたのは早朝の午前6時15分。義父の部屋へそっと行ってみたら室内が暗かったせいかわたしをヘルパーさんと間違えた。身体を洗いに来てくれたと思って喜んだらしい。わたしはそのあとまたベッドに戻り8時半頃までグッスリと眠った。

ヘルパーさんは9時頃にやってきた。こんな時でも義母はきちんと日曜日のブランチに来る。まあ、来なかったら来なかったで面白くないのだが。まったくわたしの心の狭さよと自分を叱る。

朝食のあとさすがに疲れたブリギッテが下の部屋で睡眠を取る。その間、義母は椅子の上で目をつぶっている義父のそばで手持ちぶさたに座っているだけ。会話の声はまったく聞こえて来ない。

今日も次女が義父の見舞いに訪れ、そのあとでブリギッテの甥がこれまた2人の息子を連れて見舞いに。気持ちはわかるが正直言って煩わしい。

わたしはそれからウォーキングへ。昨日は歩けなかったが今日はいつも通りに11337歩・96分を歩いて帰宅。すぐにシャワーを浴びて洗髪した。

夕方ヘルパーさんが来て義父の身体をシャワーで洗ってくれたようだが、それが終わってベッドに向かうときに膝から崩れ落ちて立ち上がれなくなった。彼の体重は60Kgくらいなのだがヘルパーさんとわたしとブリギッテの3人でようやくベッドまで運び込む。ヘルパーさんの来ているときで良かった。

これで義父が自力でトイレに行くということは無くなったという現実が残った。夜中にベッドから落ちないように木枠を嵌めてから、わが家から一駅のところにある病院へ急遽車で走って尿瓶とオマルを借りてくる。これから下の世話が始まるということだ。わたしに出来るかなぁ?

幸い明日は月曜日なので家庭医と今後の方針について相談してくる予定。

義父の死期は間近か

10月4日(土)・曇り/最高気温11度

7時半起床。一日中曇り空で湿度もけっこう高そうで気温は11度ぐらいまでしか上昇しなかった。わたしは3時半過ぎに1度目が覚めてそれから軽い喘息が出て5時過ぎ頃まで眠れなかった。仕方なく喘息のスプレーを一吹きしてそれから眠りにつく。こういうときの目覚めというのはなんだか気持ちが悪い。

今日、義父はまた一段、死への階段を下りたように思う。朝から様態が悪くてほとんど眠っている状態。もう1週間も水分を少し取るくらいでその他は何も食べていないのだからそれは当然なのだが、それにしても人間って何も食べなくてもこれだけ生きていけるんだということを目の当たりにして驚いている。

それでもベッドに入るのは夜だけと決めているようなところがあってそのへんの自己規律は偉いと思う。一日のうちに何回もトイレには行くのだが便座に座っている間は誰にも入室を許さない。この辺の矜持も見上げたもの。

面白いのは今回わが家に引き取ってから彼が一番喜んだのはウォッシュレットの便座だった。「これは素晴らしい!」とトイレを苦にしなくなったのはわたしも嬉しい。自分で使ったトイレの汚れは自分で拭き取っているようでこれも感心するところ。さすがにブリギッテがそのあとはきちんときれいにしてはいるけれど・・・。

午後、Coburg から長女が義父を訪問。しかし現在はわが家に泊まる場所がないので1時間ほど義父を見守ったあとまた帰っていった。きっと心の中でさよならを言ったのだろう。娘たちのこんな行為をとても嬉しいと思う。

今日の義父の状態はいつ息を引き取るかわからないようだったから、さすがにわたしもウォーキングはお休み。このところ疲れを感じていたからちょうど良かったのかもしれない。

午後から夕方にかけてブリギッテは義父のそばに座って背中をさすったり手を握ったりしている。彼女も別離の時が近づいているのを感じているようだ。

祝日・快晴

10月3日(金)・曇りのち晴れ/最高気温18度

6時半起床。今日は「ドイツ再統一の日」で祝日。どことなくのんびりとした空気の漂う一日だった。

朝食のあと今日は午前中にウォーキングを済ませる。午後になればまた自転車乗り達がわたしの歩くコースを走るだろうから神経を使う。いつものコースを歩いて11250歩・94分

義父の様態はわたしの目には昨日までと同じように見えるがブリギッテは昨日よりまたいちだんと弱ってきていると言う。

ウォーキングのあとシャワーを使って汗を流したあと1時間の昼寝。目が覚めると外は快晴に近い。今日は次女と末娘が来訪。長女も Coburg から来るはずだったのだが都合が付かずに明日になるらしい。娘たち2人は気をきかして義母の住まいに立ち寄り彼女を一緒に連れてきてくれた。

義父を車椅子に乗せて毛布でくるみ、彼を囲む形でテラスでお茶になった。義母の様子を観察していると夫である義父を見る眼が冷たくてなんともやりきれない。そんな状態で夫婦という形だけ維持していることの意味はあるのだろうかと思うけれど、他人にはわからない事情もあるのだろう。

娘たちと義母が引き上げてから FRITZ を走らせてダイニングキッチンの掃除をする。今夕はヘルパーさんが少し早めに来てくれて義父をベッドに入れていってくれた。

夕食をとったあとブリギッテは8時半には就寝。昨夜と同じように今夜も彼女はダイニングキッチンにマットレスを敷いて義父の部屋への扉を開け放して寝る。夜中に義父の様態が悪くなったときに備えてのもの。

今回のことで改めてわかったことは義父を一番愛しているのはブリギッテなのだ。きっと義父の言動に腹を立てるわたしのとの間に挟まってつらい思いをしていることだろう。わたしが全てを包み込んであげればいいのだけれど、それが出来ないわたしも人間が小さい。

ブリギッテの妹は彼女なりに気を使ってよくやってくれる。しかしブリギッテの弟は先週の金曜日にわが家を訪れて自分の父を見ていったあとは電話も掛けてこない。弟が可愛いブリギッテだがさすがにこれには不満らしい。男ってそういうものなのかな。

わたし自身も30年前に母を亡くしたときには、ドイツにいたこともあって母の面倒を見てくれていた兄夫婦に対しての感謝の気持ちは薄かった。ブリギッテが彼女のおばあさんの面倒を見るようになってその大変さが初めて理解出来て、兄夫婦に感謝の念を持った。人間はつらいことを自分で体験しないとわからないものなのだ。

介護10日目に思うこと

10月2日(木)・曇りときどき晴れ/最高気温18度

7時起床。義父がわが家に来てから10日が過ぎてだんだんペースが掴めてきた。しかしこれもブリギッテが休暇を取っている10月8日までの話。そのあとは日中、わたし1人になるのでそれからはかなりの違いがあるはず。まあ、先のことを思い煩っても仕方がないのでそれは考えないようにしている。

今日一日観察しているとどうも下の方が緩んできているようでそれが気がかり。朝夕はヘルパーさんが来て義父のオムツを替えてくれているが、日中にそれがわたしに出来るかといえば大いに心配である。現在はしょっちゅう(約1時間に1回)トイレに行くのだが今日はズボンの後ろが濡れているのに気がついた。浴室に行ってみるとかすかに尿の臭いがする。

午前中に家庭医の診察があってその点について相談すると薬の処方箋を書いてくれた。トイレに行く間隔が延びる薬らしいが果たして効果があるかどうかは家庭医も確信が持てないようだった。その薬を買いに徒歩で往復30分ほどの薬局まで歩く。

今朝は注文しておいた車椅子が届いた。早速、義父にに座らせてみたが座り心地が悪いとご機嫌斜め。これから外へ出掛けるようなことはまあないと思うけれど、その時に使えればいいかな。ただ車椅子は畳んでおいてもけっこう場所を取る。だんだん義父関係のものでわが家の空間は圧迫され始めている。

朝食のあとブリギッテはすぐに外出。義父の入るお墓の件で墓地事務所まで出向いた。こういうことも彼が生きている間に決めておかないとならないのだろう。

義父は相変わらず水分は時々取るのだが食べ物はほとんど口にしていない。それにしては毎日測定している体重があまり減らないのはどういう事なのだろう。ときおり「もう死にたい」と口にするが、そう思っても人間ってなかなか死ねないものだということが見ていると分かる。

義父は気むずかしいというか、他人が彼の言動をどう受け取るかと云うことに思慮の及ばない人で、わたしに対しても隣人に対してもかなりぶっきらぼうな口調である。隣人も驚いていたが、家庭医の問診に対しても同じなので彼は診察中にわたしと顔を合わせて苦笑いするほど。

当然わたしもムカッとくることが多いが、ブリギッテが献身的に義父に尽くしているのを見ると、わたしはブリギッテに対して何も言えなくなる。

わたしが彼女に不満をぶちまけたりしたら、彼女は義父とわたしの間に立って行き場がなくなってしまうのが目に見えている。義父が来てからの10日間はそばで見ていても獅子奮迅の介護ぶりで本当に頭が下がる思いだから彼女にこれ以上のストレスは掛けられない。

夕方7時にヘルパーさんが来て身体を洗い着替えさせてベッドに義父を送り込んでくれてからが平安の時間である。そのあとブリギッテと2人で簡単な食事をする。ブリギッテはもうクタクタに疲れているので9時近くにはベッドへ。わたしはそのあと台所のあとかたづけをしてからしばらく起きてマックに向かっている。そんな時、なんとなく強いお酒が欲しくなってくる。初めて経験する心の動きだが、習慣にならないよう気をつけなくては。

平穏な一日

10月1日(水)・雨ときどき曇り/最高気温18度

6時50分起床。今日も午前中はどうも体調がスッキリしないままに過ぎていった。ブリギッテが必要な買い物や手続きなどで留守の間わたしはダイニングキッチンに座って本を読みながらときおり義父の様子をうかがう。

義父は今日でもう3日以上水分以外は口にしていない。そのせいもあってかなり衰弱しているのは見た目にもハッキリわかる。今週一杯が山場かなと思うのだが、人間ってそんなに簡単には死ねないものだなと云うことを実感する。

疲れて帰宅したブリギッテと早めの昼食。昨日日本食品店で買ってきた焼きそば用の麺を使いキャベツ、人参、タマネギ、鶏のささみを具にし、オタフクの「焼きそばソース」を使った。この味付けのソース焼きそばはブリギッテの好物。

わたしはそのあと1時間の昼寝。この昼寝で体調がスッキリしたところでウォーキングに出掛ける。朝のうちはかなりの勢いで降っていた雨もこの時間には上がっていた。それでも用心して傘を持参で11596歩・97分を歩いて帰宅。すぐにシャワーを浴びる。

今夕はヘルパーさんの来るのが30分ほど遅れた。義父がベッドに入ってからブリギッテと2人で簡単な夕食。2人ともあまり食欲が無かった。今夜も早寝である。