義父が亡くなってから今日でもう11日が過ぎた。介護中はいろいろとあったけれど、この11日の間に、義父への想いが再びポジティブな方向に向かっていて自分でも驚いている。人間の心の構造というのはそういう風にできているのだろうか。
彼がわが家に突然やってきた9月21日の夜にわたしは「こりゃ、エライことになったぞ」という気持ちで少々パニクっていたのだ。インテリで自分を律する彼の生活ぶりには一目をおいていたが、いざ一つ屋根の下で一緒に暮らすとなるとこれはまた別物である。
第一印象は「いまにも死にそうなことをブリギッテもベティーナ(義妹)も言っていたが、この元気さだったら楽に年を越すんじゃないかな」というものだった。
しかし、1週間を過ぎる頃から義父はピタッとものを口にしなくなった。水分は取るのだがそれもごくわずかである。そこから急激に彼は衰弱していった。ときおり口にするのは「この状態から回復の見込みがないのなら、もう、死んでしまいたい」「わたしはいつ死ねるのか?」というもので、そのたびにわたしは「お父さん、人間、そう簡単には死なないものだよ」と答えた。
彼の心臓はかなり弱っていて彼を診察した保険会社の女医も「普通の人の心臓はドクッ、ドクッと言う鼓動が聞こえるのだが、義父の心臓音はザーッという音で鼓動は聞こえない」というもの。
このせいだろうか、両足からは水分がにじみ出てきて包帯を巻いていても数時間後にはその包帯がぐっしょりと濡れるようになった。いったん退院してきたあと自宅で転び怪我をした右腕の上腕部からは血が混じった液体がにじみ出てきてこれも止まらない。家庭医の話ではこの原因が全て心臓の弁の不具合から来ているということだった。
9月が終わろうとする頃から義父は嘔吐したくて指を喉の奥に差し込んでもなにも出てこないという症状を呈するようになってきた。胃から胃酸がこみ上げてきているのだろう。嘔吐するときの「グエェ〜」という不快で大きな音が昼夜を問わず出るようになり、わたしとブリギッテは花を持って上の階に住む住人に謝りに行った。
嘔吐はしたいがなにも出てこないという症状が出てからしばらくして義父は自分の足で歩くことができなくなり、その2日後に彼は亡くなった。上の階の夫婦(Bernhard, Evi)にはそれほどの迷惑を掛けなくて済んだ。
ブリギッテの3週間の休暇は10月8日で終わろうとしていた。そのまま義父が生きていたとしてもわたし1人ではどうしようもない。数日の経験でたった62Kg しかない義父の身体が如何に重いものであるのかを思い知らされていた。亡くなる前の2日間は下の世話もするようになって、これはわたし1人では無理だと思った。
いろいろと手を回して10月7日から入院させる手はずがついたその前夜に彼は亡くなった。10月6日、23時25分。不謹慎なことを書くが、残されたわれわれにとってはこれ以上のタイミングは望めなかったろう。
ブリギッテと2人でで死亡通知を書く医者、葬儀屋、その他もろもろの連絡も済ますことが出来、ブリギッテも予定通り10月9日から出勤出来るようになった。
今思うと義父は死を覚悟して自ら絶食したのではなかったかと疑うこともある。あまりにも彼の死のタイミングがわたしたちの生活を邪魔しないものであったからそう思うのだが。
しかしそれはわたしの思い過ごしかもしれない。彼は少なくともあと数年間は生きたい、そしてそれは可能であると思っていたはずだから。
彼の生活のリズムが崩れた始まりは7月末に義母のためにオルデンブルクの浴室改造をし、壁に穴を開けるために電動ドリルを持って階段を昇っていたときに起きた事故だった。
彼としては自分の妻がそんなことを要求しなければ、電動ドリルを持って階段を昇ることもなかったろうし、転落することもなかったと考えたのではないか。そうでなくてはそのあとの義母への対応が理解できない。
義父と義母をオルデンブルクに見舞った義妹夫妻は義父が義母に対してかなり強い攻撃的な口調と険悪な態度だったと伝えてきた。彼としては事故の責任を彼の妻に負わせたかったのだろうか。
「こんな事故が無ければわたしはあと数年は健康で生きていられたのに」という不満だ。それが彼の妻のもとではなく娘の家で死にたいと決めた原因ではないかとわたしは思う。
義母はときおりわが家に見舞いに来て午後の数時間ベッドのそばに座っていたが2人が会話をしている様子はなかった。義母が帰ったあとにホッとしたのか、彼女を非難する独り言をブリギッテが聞いている。彼はもっともっと長生きしたかったのだろう。決して平安な心での安楽な死ではなかった。