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2007年11月27日

やがて哀しき外国語 / 村上春樹著(講談社)

image 著者が1991年から約三年間暮らしたアメリカの東部海岸プリンストン時代のことを書き綴ったエッセイ集である。相変わらずの村上春樹調の文体で、それに慣れたせいかスイスイと読み進めた。今回は風邪をひいている最中で、そんなときに推理小説を読もうとは思わないけれどこの本は軽い気分転換になって楽しかった。これが今年の夏日本の Book Off で購入した最後の本。もっと買ってくれば良かった。(^_^;)

このエッセイ集の面白かった点は著者が外国に数年のあいだ住んでそこからの視点で日本のことを考え、書いていること。似た環境にあるわたしが思わず賛同したくなるようなことが幾つもあって興味が尽きなかった。長くなるけれど気にとまったそれらを引用していく。

まず前書きから。「字を書きながらものを考えていく」というのに頷いてしまった。わたしもブログを書いているときには、何を書いたらよいかわからなくとも、とにかくマックに向かって何かを書き始める。暫くキーボードを叩いているうちに書くことが出てくることが多い。

でもこの連載を続けている1年半ほどの間、書いていて長いと感じたことは一度もなかった。作家というのは多かれ少なかれみんなそうなのかもしれないけれど、僕はどちらかというと、字を書きながらものを考えていく人間である。文字に置き換えて、視覚的に思考する方が楽なことが多い。(p14)

次はLPレコードについてのエッセイで、これを読んで自分の苦い失敗を思いだした。わたしは昔ポール・トゥルトリエの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲のLPを愛聴していた。この録音のCDが出たのでそれを買ってLPを妻の親戚にプレゼントしてしまったのだが、そのあとで聴いたCDから出てきた音はわたしをおおいにガッカリさせるものだった。返して欲しいとも言えず今でも時々残念だったなぁと思うのである。

もちろんLPレコードよりはCDの方が取り扱いがずっと便利だし、音質も良い。昔よく聴いたジャズ・レコードを新しくリミックスされたCDで聴くと細部がクリアになって、「なるほど、レコードの音域では今ひとつよく聞こえなかったけれど、実はこういう音でこういう演奏だったのか」と改めて感心することも多いのだが、そういう場合でも長い時間続けて聴いているとだんだん疲れてくる。どうもその世界にしっくりと馴染めないのだ。居心地がよくない。これまであたかも煙草の煙のたちこめる地下のジャズ・クラブで演奏されていたように聞こえていたものが、CDになったとたんに、まるでどこか清潔で上品なホテルのロビーで演奏されているみたいにいやに取り澄まして聞こえることがある。あるいはまた、レコードだとえもいわれぬふっくらとした雰囲気があったのに、CDになるとそのふっくらが消えてすかすかの平凡な印象しか与えなくなってしまうものだってある。全部がそうだとは言わないけれど、そういうことが往々にしてある。(P.101~P.102)

次は床屋について。これこそ最初から最後までウンウンと頷いてしまった。わたしのドイツにおける床屋に対する恨み辛みは前のブログで散髪というエントリに書いた。村上春樹さんもほとんど同じことを書いている。(^_^;)

僕はこの六年間のほとんどを外国で暮らしながら、床屋のことでは本当に悩み、苦しみつづけてきた。この世界中で僕くらい頻繁に、そして深く真剣に床屋のことを考えて生きてきた人間は ーもちろん理髪業関係者を別にすればということだがー ちょっといないんじゃないかという気がするくらいである。とにかく床屋問題について書き始めると、ページがいくらあっても足りない。(P.178 -P.191)

そしてやはり書いてくれました、わずか数行だけれどマックに関する文章。ここにはパワーブック160/80とか、LCIII とか懐かしい機種の名前が出てくる。わたしにとっての初めてのパワーブックは190 だったが、LCIII はそれにぴったりデザインを合わせた12インチのモニタと併せてある人から戴いた。それも使わなくなって置いておく場所がないのでついこの間整理したばかりである。

とここまで書いてきたところで、ひとつ大きなアメリカ製品の買い物をしていたことをはっと思い出した。灯台もと暗しというか、今この手元にあるマッキントッシュのラップトップ・パソコン、パワーブック160/80である。これは大学のコンピューター・センターで二千二百ドルで買った。僕がアメリカで買ったものの中では、自動車についで最も高価なものであるが、日本で買うと倍近くするという話である。
「後日附記」
コンピューターはそのあとでもっと大きなのが必要になって、マックの LC III と言うのを買いました。モニター・テレビもいるし、レーザー・プリンターもいるし、大変である。 (P.224-P.237)

最後の方に出てくる翻訳に関するエッセイがとても興味深かった。翻訳という作業がいかに奥深いものであって、翻訳者の感性、知性、人間性によってまるで異なった作品になってしまう可能性があるということに改めて驚かされる。例として非常に高度に英訳された吉行淳之介の短編「樹々は緑か」のある部分を村上春樹氏が彼なりの感性で日本語に再翻訳して原文と比較しているのである。彼自身も書いているがずいぶんと違った世界が出現してしまうのだ。翻訳って恐い仕事だなと思う。
(2007年11月25日読了)