夕暮れに思う

3月も20日を過ぎてようやく春めいてきたミュンヘン。今日は夕方5時過ぎに家をでウォーキング。帰宅したのは6時を過ぎていた。

家に入る前にピンク色が目の端に飛び込んできた。多分「ボケの花」かなと思うのだけれど名前は確かではない。

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夕方6時過ぎという時間に花の色が識別できるだけの明るさになったのだということに嬉しさを覚えた。

最近は年ごとに、時間の過ぎる速さに驚くと同時に、春の訪れの遅さに苛立っていることに気がつく。数日の違いはあっても毎年同じような日に花が咲き、鳥が歌っているのに。

「春を待つ苛立ち」ーこれが歳をとったということの一つの表れなんだろう。

先のことは誰にもわからない

ブリギッテが長年の会社勤めを終わり来週の木曜日で定年を迎えようとしている。

【今朝の食卓での風景】
彼女がシャワーを浴び身支度を調えている間にわたしはいつものように朝食の準備を調えた。紅茶を煎れてソーセージ、チーズ類、マーマレード類を並べ、ボイルド・エッグを作るという変わり映えのないルーチン作業である。

彼女はきのう同僚達が会話していた「雪崩」のニュースを知りたくて、食卓についても彼女の iPad mini を操作している。「食事中はそれを止めたら?」と言うと「わたしは忙しくしていて(あなたとちがって)時間がないんです」と返事が返ってきた。

これって昭和の時代、勤めを持った夫が食卓で新聞を拡げ、妻がそれに不満を持つという風景と同じである。新聞が iPad mini に置き換わり、夫と妻の立場が逆転しているだけ。(笑)

わたしがこのとき最初に思ったのは「なるほど自分がその場に立ってみないと相手の心はわからないものだなぁ」ということ。昭和の妻達に共感をおぼえた。(^_^;) わたしは今これらの情景を俯瞰して見るような年齢と立場にあるから、彼女の言い分もよくわかる。

たまたま今朝の小さな出来事から,ブリギッテとの会話は彼女の定年後のわれわれの生活に及んでいった。彼女自身、定年退職後のわれわれの日常生活がどう変化していくのか、それにどう対処していくのかちょっと不安なようである。

年金生活者になると彼女の収入はかなり少なくなるという経済的展望への不安、来週から義母の24時間態勢の介護士さんが来てくれることへの対応、自分の健康への不安など考え出したらきりがない。

そんなことを話しているうちに話題はアメリカ大統領のことに移っていった。昨日(2017年1月20日)アメリカの大統領にドナルド・トランプが就任し世界は大きく変わろうとしている。今のところはマスメディアなどでネガティブな方向に変わるという論調が多いがこれからのことは誰にもわからない。

ありふれた結論になるが、今後現れる問題点はそれをひとつひとつ辛抱強くつぶしていくしかない。わたしが今考えているのは一度に多くの問題点を抱えて処理しようと思わないでおこうということだけ。1つ、1つ,出来るところから。しかし、大丈夫かなぁ。(笑)

スピーチ

2017年1月14日にユリア(次女)が結婚した。付き合って7年越しのゴールイン。その日は市役所(Rathaus)での結婚式で日本流に言えば「入籍」という事になる。ドイツ語では Standesamtliche Traung という。そのあとパーティはしたりしなかったりだけれど、一般的にはこじんまりとした友人だけの集まりで済ませることが多い。そのあとに教会での結婚式が控えていて、この時にはかなり大がかりなものとなることが多い。

今回はユリアが妊娠しているということで子供の誕生前に籍を入れておこうということだった。教会での結婚式は1年半後に計画しているそうだ。それまではかなり時間があるので今回は双方の家族と限られた友人数人でのパーティとなった。総勢28人である。

ドイツの習慣として結婚式のスピーチは花嫁の父親がする。わたしは結婚式が終わったあと唇にヘルペスが出来てしまった。これは心身のストレスが溜まると発症することが多いらしい。今回は介護が必要な義母をどう出席させるかという別の問題もあったけれど、このスピーチをどうこなすかということがストレスの原因だった。(^_^;)

ブリギッテに「わたしは外国人なのだから君が替わってスピーチしたら?」という提案をぶつけてみたが却下!「伝統は重んじなくてはなりません、そしてわたしは人前でスピーチをする度胸も素質もありません」というのがそのいいわけ。

では、百歩譲ってスピーチの原稿だけは書いてくれと云うとこれはスンナリと受け入れてくれた。彼女、こういうものを書くのはけっこう好きで、毎年彼女が書く Weihnachtsbrief はところどころにユーモアが散りばめられていて読んでいて面白い。

今回は双方の家族が中心のごく小さな会食だったから、双方の家族の紹介も入れましょうということで出来上がってみると約9分のスピーチ原稿になった。

ほぼ二週間前からわたしはその原稿を読み上げる練習を始めた。彼女が1日の勤めから戻って食事が終わってからわたしがその日に練習した原稿を彼女の前で読み上げるのだが、そのつど小さな直しが入った。すると翌日はその変更点をまた練習である。

こういうものは時間を掛ければいいというものでもなく要点を絞って「ここだけは間違えないように」とか「ここは軽く流して」とかを考えて短時間でも集中して何度かやったほうがいい。それを家事の間にちょこちょことやるのだ。なんだか現役時代の暗譜作業を思い出してしまった。

さて、もちろん全て丸暗記は危険だから紙にプリントアウトして本番ではそれを読み上げることになる。この点ではわたしは Nationaltheater のインテンダント・Bachler 氏を見習っている。

以前、ミュンヘンのフラウエン・キルヒェでのミサがあったときに彼が壇上で聴衆に挨拶したことがあった。そのとき合唱団員のわたしは彼のすぐ後ろで彼の一挙手一投足を見ることが出来た。印象に残っているのはそのとき彼が内ポケットから取りだした原稿のフォントがとっても大きかったこと。なるほど、これなら少々照明が暗くても読み間違えるという事は無い。そしてかなりゆっくりとした口調で全体を締めくくった。彼はもともと舞台俳優だからその辺はプロの仕事ぶりである。これが今回は大いに参考になった。

市役所での式が終わって予約してあったレストランに入ってみると、そこはかなり大きな部屋でわれわれ以外のお客も座って食べている。われわれは30人に満たない人数だったから市役所から徒歩で移動出来る距離のレストランで一部屋貸しきると云うことは無理だった。

われわれの席がレストランの真ん中に小島のように設定してあって、その周りを他の客のテーブルが囲むという配置だった。好むと好まざるにかかわらず,わたしがスピーチしたらそれを他の客も聞いてしまうということになる。これはわたしの想定外だったから焦った。しかし席に着く前に隣の部屋のカウンターで歓迎のゼクトやワインが出たので,そのアルコールで少し気分が楽になる。

わたしが立ちあがってまず話したのは、原稿にはまったく書いてなかった他のお客さん達への挨拶だった。要約すれば「つい先ほど若い人たちが結婚式をあげ、この部屋で会食をすることになった。ドイツの慣習としてわたしがスピーチをするけれど約9分間の短い時間、皆さんのお食事を邪魔するかもしれない。若い2人の門出だとどうぞご容赦いただきたい。」というものだった。

次にこれも原稿にはなかったこと。もし原稿の読み間違えなどがあったときの言い逃れである。(笑) これにはヨハン・シュトラウスのオペレッタ「コウモリ」を使った。この楽しいオペレッタの最後でアイゼンシュタインが妻のロザリンデに謝る台詞をもじって「もしわたしが言い間違えたり、台詞を噛んだりしたらそれは先ほど飲んだゼクトのせいです」ということで、これで場の空気がずいぶん柔らかくなった。この2つの想定外の挨拶はあとでブリギッテに誉められた。そして他の席のお客からもおめでとうの挨拶をいただいた。(^_^)

終わってみて本番が一番良い出来だったと自画自賛している。

寒い!

昨夜陽が落ちてから急に気温が下がり始めた。テラスの外気温を見るとマイナス15度でそりゃ寒いはずだ。

そのあともどんどん気温が下がっていくので、蒸し風呂で身体を温めてからベッドに入った。

で、今朝起きて見るとマイナス18度。夜中にはきっとこれよりも低かったはずだがマイナス20度まで行ったろうか。

1時間後の7時半になると外気温は上昇中それでもマイナス16度だ。新年になってまだ7日しか経っていないが、今年一番の寒さである。

今日のアドヴェンツカレンダー

12月24日ということで今日のビール瓶にはサンタさんの帽子が被せてあった。クリスマス・スペシャルバージョンということらしい(^_^) 中身は黒ビールである。アルコール度は6.4%。やはりわたしにはアルコール分が6%を超えると違和感が残る。ザルツブルクの北に位置する Gundertshausen9 5142 Eggelsberg Austria の醸造所製。
www.kalea.at

10年ぶりに外人局を訪れた

ミュンヘン市の 外人局(Ausländerbehörde)に行ってきた。日本の10年間有効のパスポートの期限が切れるのでまた10年の延長をした。すると自動的にドイツの滞在許可証も更新しなくてはならない。この2つは紐ついている。

今の時期は多くの難民が登録に来ているので外人局はてんてこ舞いで大変なことになっているだろうということは予想していた。ホームページを見たら滞在許可証の延長は予約を取ってから来て欲しいということが記されていたので,しばらく前(12月12日)に申し込んで今日(12月23日、午前7時半)に予約が取れた。今朝は久しぶりの5時起きである。

公共交通機関は何が起こるかわからないので余裕を見て7時に外人局に到着するように家を出た。まったく問題なく7時に到着。扉の前には既に20人ほどの人たちが待っていた。開館は7時半である。ただ並んで待っているのも退屈なのでその周辺を20分ほど歩き回ってから7時半に入館。開館直前は想像していたほどの人数ではなく50人ほど。

まず受付でわたしの行くべき部屋はどこにあるのかを確かめる。この時に「オヤッ?」と感じたのは受付の係員が微笑を浮かべながら応対してくれたこと。10年前とはずいぶん違うなと一瞬思った。わたしはまったく正反対の,応対に疲れてぶっきらぼうで不機嫌な受付を想像していたのだ。少なくとも10年前の記憶ではそうだった。

外人局の内部というのは結構広くて迷路のように入り組んでいる。名前のアルファベット別に入る部屋が決まっている。

ここでも昔の記憶が蘇ってきた。例えば安倍という姓なら「A〜C 」というシールの貼ってある部屋に入るわけだ。そしてこのアルファベットによってどんな係員に当たるかが、運不運の分かれ目だった。

ひどい係員に当たるとまったく話が進まずに難癖を付けられることがあったりしたのである。わたしの場合は奨学生として入国しその1年後から劇場の仕事に就くことになったので就労ビザを取る手続きが複雑だった。その時の記憶は嫌な思い出として残っている。

今回は予約を取っていたので待つこともなく受付のあと指定された部屋にスンナリと入ったわけだが、なんだか空気が違う。対応してくれた女性も常に笑みを浮かべていて指摘することも簡潔・明瞭。これなら街の商店の売り子さんよりも感じが良い。ミュンヘン駐在の日本人をお世話している女性にすぐに SMS でこの点を報告してみた。

「今、Ausländerbehörde に来ています。係員の態度が10年前に比べたらずいぶん親切になったような印象です。ドイツも「おもてなし」とか考えているんでしょうかね。」

すぐに返事が返ってきた。

「確かにそうですね。ある時期問題やクレームが多かったので、部屋も中でつながっていたり、複数で座っていて汚職や外国人への暴言が無いようになってます。改善したのはいいことです。」

やはり、10年の間にはいろいろとあったのだ。日本の外人局も訪れる外国人には親切に応対して欲しいなぁ。

わたしの旅券歴

一昨日、日本総領事館で新しい旅券を発行して貰った。わたしにとっては7冊目の旅券である。今回旅券を受け取ったときに最初に考えたのは「次はあるかな?」ということだった。つい先日も高専時代の級友が死去したという知らせを受けたばかり。70歳を過ぎたら何があってもおかしくはないのである。そんな気持ちもあり振り返ってこれまでの旅券用に写した写真を並べてみた。これが自分にはとても面白かった。

1.まずは、1977年4月(30歳)の時に取得した最初の旅券である。ドイツに留学出来るということが決まって取ったわたしの初めての旅券だった。旅券の色は深い青色

2.次は1982年3月(35歳)の時に更新した旅券の写真。この当時、すでに10年の数次旅券が有ったのかどうかは記憶に無いが、わたしが取ったのはは5年の数次旅券だった。ソリストとして歌っていた頃の写真である。旅券の大きさは変わらず表紙は赤に変わっている。

29.03.1982-29.03.1987 35歳

3.3つ目はそれから5年後の1987年3月(40歳)の時の写真。この時には既に合唱団員としてミュンヘンに戻ってきていた。生活の安定に伴って娘も2人に増えている。この当時はこういった子供と一緒の旅券も発行してくれたのだが、今はどうなのだろう。三脚を立てて自分で写した写真だったが、背景は白でなくてはならないとかあまりうるさくなかったようだ。この時アンナは5歳、ユリアは2歳だった。

4.4つ目はその5年後、1992年3月(44歳)の時。娘が3人に増えている。アンナが9歳、ユリアが6歳、そして末娘のカローラが3歳だった。こうして娘たちと一緒の写真を旅券に貼っていた当時の利点はどこの空港のパスコントロール係員も一様にわたしに親切でいつも笑顔を返してくれたこと。(笑)

5.5つ目は1997年3月(49歳)のもの。白髪が目だってきているがまだ頭髪は充分に黒い。しかし、この写真にはどこか疲れた表情が見える。子育て真っ最中の頃だから仕方がないのかもしれない。この時から10年の数次旅券を取得。赤い色は変わらないが旅券自体の大きさも一回り小さくなった。

6.6つ目は2007年2月(59歳)のもので、これも10年の数次旅券。旅券の形態も中にチップが埋め込まれた型紙のページが増えていて電子技術の進歩とアメリカの空港でのチェックが厳しくなっているのが伺える。頭は既に白髪となってしまっている。

13.02.2007-13.02.2017 60歳

7.そして今回の2016年12月(69歳)のもの。前の旅券は来年の2017年2月まで有効なのだが、時間の取れるときに更新しておこうと思った。10年前の写真と比べるとどこか薄ボンヤリした表情で緊張感に欠ける。これが責任のある仕事から離れた年金生活者の素顔なのだろう。(汗)

CUVILLIÉSTHEATER (クヴィリエ劇場)での演劇鑑賞

一昨夜12月3日(土)は義母のピンチヒッターとして演劇を観てきた。わたしはいつもの Residenztheater だとばかり思っていたのだが、その夜はミュンヘンの誇るロココ風劇場の CUVILLIÉSTHEATER での上演だった。

いつもの Residenztheater なら車をほとんど劇場の入り口に横付けにすることができて義母はそんなに歩かなくてもすむ。しかし昨夜は道の途中から車は進入禁止になっているし、アドヴェントの時期で劇場の入り口近くの Odeonsplatz は人で一杯だった。本当に義母を連れてこなくてよかったと思った。無理に連れてきていたら彼女、あの寒気で肺炎にかかっていたかも。

で、われわれが観た演劇だがなんと表現していいのやら、わたしにはかなり退屈で最後の10分ほどは座っているのが苦痛に感じられた一時間半だった。テーマはトロイ戦争でオデュッソイス、に絡む二人の男たち。登場人物はたったの3人で、この3人が交代で、延々と語るのだ。音楽はもちろん無し、舞台装置も簡単な部屋とギラつく天井からの照明以外ほとんど無し。下の写真の舞台通りである。

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俳優たちのセリフを追いかけるという点ではそれでいいのかもしれないしトロイ戦争とギリシャの歴史を熟知している人ならば楽しめたのかもしれない。終演後、 Brigitte の感想を聞いたら、かなり忍耐を要するお芝居だったという。

演劇の内容とかを書いてもすぐに行が尽きてしまうので違うことを書く。それは昨夜演じられたロココ風劇場:CUVILLIÉSTHEATER (クヴィリエ劇場) のこと。

この劇場の歴史などはWikipediaを読んでもらえばわかるので省略する。昨夜わたしは自分の iPhone 7 Plus を持って行かなかったので Brigitte の携帯を借りて劇場内を写した。わたしの iPhone 7 Plus だったらもっと美しく撮れたのではないかと思う。

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手入れも行き届いているのだろうが、いつもながらの美しさ。絨毯のように見える装飾はすべて木彫りのものである。先の大戦の時にはこの劇場のすべてを分解して疎開させてあったので無事だったとか。

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わたしはここで「魔笛」「チェネレントラ」などで舞台に立ったことがある。小さい劇場なので歌いやすくもあり、Königsloge もすぐ目の前にあるような近さで独特の世界だった。

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大人の Adventskalender

子供向きのチョコレートの入ったものだけではなく、こういうAdventskalenderもきっとあるんだろうなぁと思っていたら昨夜の食事会に招いた人がプレゼントしてくれた。

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12月24日まで1日に一本ずつ楽しむらしい。同梱されていたグラスはビールの利き酒をするものらしいです。今夜はその中の一本を。(^ ^)

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義母から貰ったアドヴェントカレンダー

例年だと Brigitte がAdvent Kalenderをプレゼントしてくれる。とはいっても娘たちへのプレゼントのついでに、という感じであくまでも娘たちが主役だ。(笑)

先日わたしが義母の夕飯の支度をした時に、彼女がわたしにとくれたのが下の写真にあるAdventskalenderである。医者へ連れて行ったり車椅子で散歩をしたりしているので気が引けているのだろう。

これはスーパーマーケットなどで売っているものとは違ってちょっと豪華版。なんと行ってもミュンヘンで一二を争う美味しさの老舗、エリー・ザイデル製である。これはちょっと嬉しい。

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甘いものは身体が疲れた時以外には食べないけれど、これなら1日一個を楽しんでもいいな、と思う。

と書いてきて、足の悪い義母が自分で買いに行けるわけはないから、これは Brigitte が選んで買ってきたものだということに気がついた。本当は Brigitte 本人が欲しかったんだろう。今日からは1日交代でいただこう。(笑)

町の本屋は消え去るのみか

知人にプレゼントしたいと思った本があって、午前中に街へ出たついでに本屋で探してみた。その本はイタリア人が書いた “In Her Kitchen” という。日本語にも翻訳されていて「世界のおばあちゃん料理」という題名になっている。残念ながらドイツ語にはまだ訳されていないようだ。

前もって amazon.de で調べて行った。amazon.de では値段は29.9€で配達は明日。ミュンヘン市内で一番大きい本屋 Hugendubel で聞いてみたら在庫は無しで注文になるという。来るのは12月14日、そして値段は38€ということだった。

わたしの心情としては条件に若干のマイナスがあっても町の本屋で買おうと思っているのだが、これだけの差があると如何ともしがたい。

夕食時に Brigitte とこの件について話し合った。彼女は「年配からお年寄りの人はインターネットでは買わずに本屋で買うと思う」と言う。しかしその年代層が買う本の量は限られている。やはり本を読む層は若者たちが一番多いと思うのだ。そして本をたくさん買う人ほど一冊の値段の差はボディブローのように効いてくるはず。

・在庫
・注文してから手に入るまでの期間
・値段

上記の条件にこれだけ違いがあるとすると町の本屋さんが早番消え去るのは仕方のないことなのかもしれない。

今年はトマトが豊作

今朝、出勤前にブリギッテが庭の植木鉢で赤くなっているトマトを収穫してきた。

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どうやら今年はトマトの豊作年らしい。わたしはトマトは嫌いではないのだが、二人ではとても食べきれない。今夕はカローラ夫妻に会うので彼女へのお土産にする。

野菜も植えてはいるのだが、こちらは育てるのが難しそうだ。長ネギは固くなるし、人参もご覧の通り見映えが良くない。

左の「ほおづき」のようなのは今年初めて試してみたのだが、次から次へと実が成り続けている。形状は日本のお盆の頃に見るほおづきと全く変わらない。日本のものが苦くて食べられないのとは違って、これは食べられる。甘くておいしいのだ。種類が違うのだろう。

映画「ダラス・バイヤーズクラブ」を観た

ダラス・バイヤーズクラブ

今朝マックでメールを読んでいるとアラートが出た。
「レンタル中の映画「 ダラス・バイヤーズクラブ 」があと2時間で期限が切れます」というものだった。ひと月ほど前に¥100でレンタルしたものだが観ないで捨ててしまうのも惜しい。あまり気が進まなかったけれど観始めた。

想像していた通りに、最初はわたし好みではない場面の連続だったけれど、この映画がAIDS の新薬に関するものだったことが分かってきて興味が湧いてきた。

現在わたしが住んでいるアパートの3階にもホモセクシャルの男性がいて、ある時期から彼はエイズに罹っていた。しかし彼は現在でもまだ生存している。彼がエイズに感染したのはちょうど新薬が見つかった頃だったから、その意味では幸運だったのだろう 。

ただ、薬の副作用なのだろうが死は免れてもその容貌は一変してしまう。何人ものエイズ患者を見てきたので、今ではわたしでも「あ、この人はエイズに罹ったけれど新薬で助かっているな」という見分けが出来る。それだけエイズに罹った人の顔にはある種の特徴がある。

わたしの職場だったオペラ劇場でも1980年代の後期はエイズに感染した人が数人いて、その人達はわたしが「あれ?急激に痩せて、ちょっと容貌が変わったな」と思うと間もなく死んでいった。

たとえば合唱団の同じテノール仲間だったあるアメリカ人もあっと言う間に死んでしまった。劇場入り口に座っていた受付の男性も「この頃顔を見ないな」と思ったらやはり亡くなっていた。あの頃は本当に「エイズは死の病」だった。

わたしの受けた感じではエイズへの新薬が普及した時間はかなり迅速だったと感じる。わたしも知らなかったのだが、抗エイズの薬を作ったのは日本人らしい。

アメリカではさまざまな事情でこの新薬を解禁する時期がずいぶん遅れたらしい。この映画はそれと戦ったダラスのカウボーイの物語。

展覧会で買ったもの

4月から約4週間の日本旅行中に8回の展覧会を観て回った。全てを観て回ったあとには必ずショップに立ち寄りなにか記念になるものを探す。今回は絵はがきを買うことはほとんど無かった。

今までの経験で買って来た絵はがきを使う機会がほとんど無く、机の引き出しに眠ったままになっている。そこで今回はマグネットが裏に貼られたちいさな(5cmX8cm)グッズを買ってきた。これなら冷蔵庫の壁などを使ってピン代わりになる。

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毎日冷蔵庫を使う度に眼に入ってきて、これはなかなか良いものである。

日本で観た展覧会

今回の日本滞在中には8つの展覧会を観ることができた。

1.安田靫彦展(4月17日)
2.黒田清輝展(4月19日)
3.北大路魯山人展(4月20日)
4.奥村土牛展(4月23日)
5.土門拳展(4月29日)
6.吉田晴弥展(5月2日)
7.根付けと提げ物展(5月5日)
8.広重ビビッド展(5月6日)

どれもが素晴らしい展覧会で大いに楽しめた。同時期に開かれていた「カラヴァッジョ展」や「伊藤若冲展」のような長蛇の列に並ばなくてはならない展覧会は意識して避けた。

それでも入場してみるとイラッとしたことが二、三の展覧会場であった。原因は2人連れ、時には3人連れのおばちゃん達。このおばちゃん達はひとつひとつの絵の前に固まったままなかなか動かない。さすがに大声で会話することはないのだが、聞こえてくるのはお決まりの「素晴らしいわね〜」に始まって各人がどこかで仕入れてきたうんちくの数々。

おばちゃん連れはひと組では無いから列がなかなか進まない。わたしはそのおばちゃん達を通り越して一通り観て回り、また最初に戻りおばちゃん達のせいで観られなかった作品を観て回るということをした。大体3回ほどこれを繰り返すと全ての作品を見ることが出来る。

展覧会ってひとりひとりが楽しむものだと思う。会場入り口までは友だちと一緒に来ても会場の中では単独行動をとって、作品への感想などは会場を出たあと仲間同士で楽しんで貰えないものかと思う。無理かな。

うまい棒

今日の午後ユニクロでシャツなどを買ったあとエスカレーターで降りてきたら、下の階になにやら列が出来ていた。なんだろうと思って見ると、アトレ内で3000円以上のお買い物をした人はレシートを見せると箱の中に手を入れ、つかみ出しただけの「うまい棒」を獲得できるというもの。これも子供の日のアトラクションなのだろうか。

「うまい棒」というのは名前は聞いたことはあっても見たことも食べたこともなかった。物珍しかったのと、たまたまユニクロのレシートを持っていたので挑戦してみることにした。

わたしの手は大きくはない。むしろ小さいと言える。それでも箱の中に手を突っ込み精一杯「うまい棒」を掴んでみた。7本までは掴めた。しかし主催者側もよく考えていて手を入れる丸い穴がそれほど大きくはない。7本掴んだは良いがそれを持ったままだと穴から「うまい棒」を握った手が抜けないのだ。なるほど! わたしは思わず笑ってしまった。

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そしてわたしが獲得したのは5本の「うまい棒」だった。わたしの次の少年はなんと7本も獲得していた。こういうものにもやはりコツがあるらしい。

花王の同期会に出席

今日は花王(当時は花王石鹸)同期入社組の懇親会に出席してきた。昭和42年(1967年)に入社した大学院、大学、高専卒業者は50名だった。今年は丸49年が過ぎ50年目に突入したところ。今日集まった人たちは23名。今日までの間に物故した人はちょっと驚くような数だが11人を数える。

場所は JR市ヶ谷駅から徒歩で2分ほどのとても足の便の良いところ。土地不案内のところなので早めにホテルを出たら13時会場なのに12時にはもう到着してしまった。

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集まってきた人たちの中には約50年前の面影が色濃く残っていてすぐに識別できる人もいたが、名前を言われてもサッパリの人もいた。今日の同期会には技術系ばかりでなく事務系の人もいたからだと思う。あのとき入社した50人中で事務系は10人だけだったというから、そんなとところにもあの当時の花王石鹸という会社の性格がうかがわれる。現在の年齢は69歳(高専卒)〜74歳(修士卒)と幅がある。

宴会用の部屋に3つの大きな丸いテーブルがあって、入場前にくじ引きで席順が決められていった。乾杯が始まり前菜が終わる頃から幹事役に指名されてひとりひとり立ち上がり、近況報告をする。

この会ではわたしが最年少なのでわたしがトップバッター。入社後わずか1年あまりでドロップアウトした点を皆に謝り、今日までの生活を手短に述べた。宴会場は13時から15時半まで2時間半の予約だったので、食事が進むなか全員の挨拶が終わったのはちょうどデザートのコーヒーがでてきたところだった。このへんの時間の読みは皆さん慣れておられてさすがである。

先に書いたようにわたしは高専卒業で誕生日も3月末だから本当に一番若い参加者だった。そのせいかなんだかいつの間に流れに乗って引っ張られているように気持ちの良い時間だった。

皆さんが話してくれたテーマは過去の自慢話などは全く無く、やはり健康に関することが多かった。シルバー川柳に「無病では 話題に困る 老人会(クラス会)」とある通りだ。でも目の前で語られると決して暗くなく、むしろそれを甘受し、楽しんでおられるかのように皆さん元気そう。

ウォーキングをしているという人が出席者の約4分の1にあたる6人ぐらいいて、その誰もがかなりの歩数をこなしている。これには脱帽。どうやら定期的に気の合った同期の連中が集まってゴルフ会、麻雀会を楽しんでおられるようだった。

今日の同期会がお昼に行われた理由というのがなるほどと思った。年齢層は69〜74歳というのでそろそろお酒を飲ま(め)なくなった人が多いのと、帰宅が夜遅くなると家族に心配をかけるということらしかった。

それと「老老介護」の話題もチラホラと出ていて、毎日3食を全て1人で作っているという人が3人もいた。

キッチリと3時半には次の機会を期して散会となった。ほんとうに気持ちの良い集まりだった。

フレッシュマン

やはり時差ボケなのかそれとも花粉症のせいなのか夜中にパッチリと目が醒めてしまった。昨夜は日本時間によりそうかたちで夕方6時頃に夕食をとり、8時過ぎに「おふろの王様」で疲れをとったあと9時頃には眠くなってベッドに入ったのに。

眠れないままに昨日日本に着いてからの印象を考えていた。この時期に来ないと絶対にわからなかったことが1点あったのでそれを記しておく。

始めは羽田空港のパスコントロールの窓口。若い係員がいる後ろにもう一人それを監視しているかのような人が立っている。そしてこの人たちも結構若い。緊張した表情でわたしのパスコントロールをしている人の胸には名前のほかに「研修員」という名札が。

同じことに出会ったのは数時間後のホテルのフロント。やはり緊張した若い人たちが後ろに監視員を従えて客に応対していた。先輩社員に見られているからかどうしてもその対応がぎごちない。こちらの気持ちもついつい「頑張れよ!」となってしまう。

この現象は日本が4月から始まる年度制を採用しているからだということに気がつくまでに数秒かかった。同じようにイギリスは確かまだ年度制だと思うけれど4月開始ではないという記憶がある。イギリス以外のヨーロッパの国々では見られない社会現象である。

ここまで書いてきてなんだかデジャブ感があるのに気がついた。記憶を遡ってみると5年ほど前に久米 宏さんが「ラジオなんですけど」という番組のオープニングで話していたのをポッドキャストで聴いたのだった。

現在のグローバル化した世界に日本が同調していかないと機能しない点は多いのだろうが、不都合さえ生じないのならこの年度制という慣習、そんなに悪くないんじゃないかと思う。桜の開花と同じぐらいに新鮮な季節の移ろいを感じさせてくれるから。歳をとるごとに新鮮なものに接したときの喜び、驚きは大きくなる。

Saurer Radler

Radler という飲み物がある。ビールとレモナードを半々ぐらいに混ぜたもので自転車ツアー中に休憩したときなどに喉を潤すことからこの名がついた。ミュンヘンだと Helles Bier + Fanta という組み合わせをよく見る。

ビールだけでは酔っ払ってしまうのでレモナードを混ぜてアルコール度を半分にする。これは当然のことだが甘い。

わたしの誕生日(3月18日)にブリギッテの親友夫妻と4人でバイエルン料理を食べにレストランに入ったのだが、彼が注文したのが Saurer Radler だった。わたしは初めて聞く名前だったが Helles Bier + Mineralwasser (ビール+ミネラルウォーター)ということだった。Mineralwasser はガス入りのものである。

そして一部ではこれを BMW とも呼んでいるらしい。Bier mit Wasser の略なのだが、自動車の BMW と掛けているらしい。

完全リタイア

2月14日(日)
わたしが定年退職したのは2012年7月31日。

あの日からもう3年半の月日が過ぎようとしている。ありがたいことに定年退職後もときどき頼まれて舞台を勤めていた。しかし、去年あたりから自分の声が思うようにコントロールできていないことに気がついていた。さて、引き際をいつにしようかと考えていたときに、先日劇場から出演依頼のメールをいただいた。

Holländer
05.03.16               19:00 Uhr
08.03.16               19:30 Uhr
11.03.16               19:00 Uhr
 
Trovatore
10.03.16               19:00 Uhr
13.03.16               19:00 Uhr
17.03.16               19:00 Uhr
 
Lohengrin
20.03.16               16:00 Uhr
24.03.16               17:00 Uhr
27.03.16               16:00 Uhr
31.03.16               17:00 Uhr
 
Turandot
26.03.16               19:00 Uhr
30.03.16               19:30 Uhr
02.04.16               19:30 Uhr

3月は上記のように合唱団にとってかなり過酷な予定となっている。この日程だと過去の経験から何人か病欠者が出るだろうということは充分予想される。合唱団事務所としてはその時になって慌てないように今から手当てをしておこうという腹づもりなのだろう。

しかしこの機会を捉えてわたしは完全リタイアを伝えようと決めた。合唱団事務所へのわたしの返信メールは次の通りである。

Vielen Dank, dass Sie sich an mich errinert haben.Ich möchte leider zu allen Terminen absagen. Ich bin bald 69 Jahre alt und ich trainiere meine Stimme nicht mehr regelmäßig. Ich würde sagen, dass ich endlich richtig im “Ruhestand” angekommen bin.
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わたしのことをお気にとめて下さってありがとうございます。折角ですが、全ての出演依頼を辞退させていただきます。わたしは間もなく69歳になろうとしていて、毎日の声の鍛錬もままなりません。わたしもやっと本当の意味でのリタイアをするときが来たと申し上げます。
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ヴァレンタインデー

今朝、妻がニヤニヤ笑いながら写真の袋を手渡してくれた。

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わたしもすぐに気がついたが、今日はヴァレンタインデーだった。もう何度も書いているがドイツのヴァレンタインデーは男性が女性に花を贈る習慣になっている。しかし、いつだったか日本のヴァレンタインデーの様子を話して聞かせてからは、わたしにプレゼントしてくれるようになった。

わたしは最近けっこう食べるようになったけれどあいかわらず甘いものは苦手。それで彼女がプレゼントしてくれたのはイカと小魚の燻製。おつまみである。

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これらは EDEKA というスーパーマーケットで売っている。以前に試しに買ってみたところ日本のコンビニで売っているものと同じ味がした。それを憶えていたらしい。

しかしやはりチョコレートがないと格好がつかないと考えたのか、下の写真のアルコール入りチョコレートも袋の中に入っていた。(^_^)

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貰って嬉しかったクリスマスプレゼント

2015年(昨年)のクリスマスに義母から古いビールジョッキをプレゼントされた。昨年は彼女を何度も車に乗せて病院やら買い物やらに連れて行ったものだから、それを感謝してということらしい。

いただいたのは義母のおばあさん(1880-1961)から受け継いだビールジョッキ。錫製の蓋はそれなりに古色蒼然としているがなかなかの風格で、とても嬉しい。少し手入れをしてこれでビールを飲んでみるつもり。

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この女性はブリギッテのひいおばあさんにあたるわけだが、写真が残っているのでそれを揚げておく。1枚目の写真は抱かれている義母が2〜3歳の頃のもの。多分1933年頃だろう。

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次の写真は女性四代にわたる写真で左の幼子がブリギッテである。右から二人目はブリギッテのおばあさん。ひいおばあさんにとっては息子の嫁で、この二人に血のつながりはない。
これを見ていて写真って撮っておくべきだなぁとまたしても思った。

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新しい「歩数計」

日本から旅行で来ているご夫妻に頼んであった歩数計を今日受け取ってきた。メーカーは前回と同じくオムロン。つい先日まで10年間使っていたものとはずいぶん様変わりしていて単純な「歩数計」以外にもいろいろな機能が付いている。わたしとしてはこれまでのように単純なものが望ましいが競合する会社が多いからそうもいかないのだろう。

名前も「オムロン 活動量計」(HJA-403C) Calori Scan というものになっている。

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機能が多いだけ設定も複雑。使い方などは徐々に慣れていくしかない。9月半ば以後今日までほとんどウォーキングが出来ていないので、年が明けたらまた精進する覚悟だ。そのモチベーションを上げる手助けになってくれれば。

70年前に思いを馳せる

明日8月15日は日本の敗戦記念日。ドイツが降伏したのはそれよりも早い5月始めのことだった。70年前の出来事である。

もう何年もわが家の前を走る道路の向こうに拡がっている森をウォーキングしている。最初の数年間は気がつかなかったのだが、ブリギッテの叔父さんが森の真ん中を走っているアスファルト道路の向こう側に小高い丘があることを教えてくれた。そこは Perlacher Mugl(ペルラッハー・ムーグル)と呼ばれている。

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ミュンヘン市とその周辺はそのほとんどが平地であって東京のように坂の多い町ではない。だから自転車で走るのにはとても適した街。わたしのウォーキングコースでも丘と呼べるのはここだけ。

その叔父さんが説明してくれたところによるとこの丘は第二次世界大戦の時に、防空壕を掘ったときに出た土を盛ったものだそうだ。

意識してミュンヘン市内を見てみるとちょっとしたところに小高い丘があって現在は公園のようになっているところが何カ所かある。これらのほとんどが防空壕を作ったときに出た土を盛った場所らしい。

わたしの故郷である炭鉱町には「ズリ山」というのがあった。これは地中から掘り出した石炭を選鉱した後の土の山である。違うのは戦争という悲惨さから生み出されたものと経済の繁栄から生み出されたものという差だ。

ある天気の良い朝にわたしはこの Perlacher Mugl に登ってみた。戦争終結から70年経つと頂上までの道は緑に包まれて柔らかな自然そのものである。

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そして頂上に立つとそこには展望台があった。

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そこに立つと空気が澄んで視界が良ければ遙かにアルプスが見える筈である。

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おそらく現在ミュンヘンに住む多くの人は、この緑に包まれた丘を見て戦時のことに思いを馳せることは無いだろう。誰かに教えられてそれを知ったとしても「ああ、そうなんですか」で済んでしまうにちがいない。

わたし自身が敗戦の二年後に生まれたから戦争は体験していない。そんなわたしが偉そうに戦争の悲惨さを語る資格はない。幼児体験として憶えているのは周りの皆が貧しかったこと、でもどこか明るさと活気に満ちていたことだけ。

この丘を見てもその土の量の多さから観念的にその当時の恐怖と悲惨さを想像するしかない。

時間の流れというものはそういう事なのだ。もしかするとそれで良いのかもしれない。

カローラのケーキ

十日ほど前にブリギッテの職場の若主人夫婦に頼まれてカローラが作ったケーキ。

今回は若主人夫婦の長男が洗礼を受けたのでそのパーティで披露、食べるもの。

男の子(名前はダミアン)なので基調の色はブルーということらしい。

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庭の紫陽花

日本ではもう紫陽花の季節は過ぎてしまっているだろうけれど、わが家の庭では今が盛り。この写真は5日前に写したものだが今日あたりはもう少し力がみなぎっている感じがする。

赤い花の紫陽花も植えてあるのだが、青い花の方が美しい。
記録としてアップしておく。

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カローラ作のケーキ、また

先週Carolaが作ったケーキがまたまた見事だったので記録しておく。

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チョコレートケーキ。ギムナジウム時代、音楽教師だった恩師の奥さんが60歳の誕生日を迎えたので奥さんのためにと頼まれたそうである。

例によってマルチパンで作られたグランドピアノの見事なこと。ピアノの内部もいかにもそれらしい。黒鍵のひとつが床に落ちてしまい見つからなかったのでちょっと変なのはご愛敬。(笑)

書かれた文字は Happy Birthday Felizitas なのだがそれぞれの単語の最初に注目して欲しい。ト音記号やらバス記号を使っている。そしてケーキを囲んでいる音符は「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」のメロディだ。

このケーキを見たかつての恩師は「これまでで最高のケーキだ!」と感激だったらしい。

昨夜の食事会

昨夜の食事会の内容を記録しておく。週末ではなかったからその日に料理するということは不可能だったので、前夜に準備できるものは作っておいた。当日のブリギッテは普段通り8時に家を出るので早朝5時起きして最後の準備。そのあとのテーブルセッティングとか鴨肉を切り、盛りつけるのははわたしに任せられた。必然的に温かい料理はなし。

飲み物はビール、白ワイン(エルザス産のゲブルツトラミーナ.2013)、ミネラルウォーター。

食卓を囲んだのはわれわれ夫婦を入れて6人。ドイツ人女性と日本人男性の組み合わせである。年齢もブリギッテを除いて皆60歳以上。

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前菜は冷たいスープ、ガスパッチョ。小さな器に入れて一人2個ずつ行き渡るようにした。1個で止めておいても可。

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醤油味をベースにした日本風ヌードルサラダ。わたしが昼食に食べようと買っておいた「讃岐うどん」をいつの間にか使われてた。(-_-;)

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シーフードサラダ。シーフードは出来合いのもの。

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レンズ豆のサラダ。

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アボカドクリーム

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鴨の胸肉ローストを刺身風に切り、ソースを回し掛けておいて上からネギの小口切りと生姜の薄切りを乗せたもの。今回唯一の肉。

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茹でた空豆。茹でているときにブリギッテが電話に出たために忘れて茹で過ぎ。きれいな緑色に仕上がるはずだったのに残念。(^_^;)

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デザート。サンドロンクリーム(Sanddorncreme)サンドロンって調べてみると日本ではシーバックソーン(海のクロウメモドキ)と呼ばれたり、
サジーという名前のようです。

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誕生祝いのケーキ

先週、ブリギッテに頼まれて作ったCarolaのケーキが好評だったので記しておく。

ブリギッテが勤めている宝石店の工房で働いている友人が40歳の誕生パーティをすることになりわれわれも招待してくれた。仕事場の仲間たちがお金を出し合いパリ旅行の資金の足しにとプレゼントしたという事を聞いたブリギッテがパリをモチーフにしたケーキをCarolaに注文した。

デザイン、ケーキの内容などは全てCarolaに一任したのだが、やはりパリならエッフェル塔だろうということでデコレーションに選んだようだ。

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30x30x10cmのケーキ本体の上にもう一つ小さな台座のケーキを作って乗せその上にエッフェル塔を乗せる。このエッフェル塔はどのようにして作ったのかは分からないが素材は砂糖と卵白だけ、リボンは飴細工ということだ。

Carolaのところにそれを受け取りに行ってそれを見た時まず考えたのは「これ、どうして運ぶの?」ということだった。誕生パーティの会場までは車で40分くらい走らなくてはならない。その間にちょっと急な坂道が一箇所ある。土台のケーキに台座とエッフェル塔を乗せると全体では35〜40cm位の高さになる。当然車で運ぶときにはエッフェル塔と本体を分けなくてはならない。

土台の方はそれ用の箱があるので坂道のところでずれないように滑り止めシートを下に敷いておけば大丈夫。問題はエッフェル塔だ。

Carolaからも「壊さないように!」と注意されていたから運ぶのには細心の注意を払った。どうしたかというと、まず発泡スチロールの板上にエッフェル塔を乗せ台座のまわりに爪楊枝を立ててずれないように囲む。しかしこれだと台座に直接爪楊枝は立てられないので上下にバウンドしたらお終いである。

それを助手席に座ったブリギッテに両腕で水平に持って貰い、出来るだけ道路のくぼみを避けるように注意深く車を走らせた。蕎麦屋の出前持ちが使う、バイクの後ろに付けたバネ入りの運び台を人間が替わりにやったわけだ。どうしても道路のデコボコを避けられない地点ではわたしが前もって Achtung! と注意を促してノロノロ運転。(笑)

ようやく無事に到着してそこでケーキを組み立てたのだが、すでにその時点で招待客の目を奪うこととなった。「このエッフェル塔はどうして作ったの?食べられるの?」という質問攻めに遭ってブリギッテはどや顔満開。
ケーキ本体にはチョコレート文字で Bon Voyage! (よいご旅行を!)と描いてある。(下の写真)

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デザートの時間が来て招待客たちに誕生日を迎えた本人がケーキを切ってあげていたがエッフェル塔のところで包丁がピタリと止まってしまった。(下の写真)

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彼も切って食べるのは勿体ないと思ったらしい。われわれが失礼するときにはまだエッフェル塔は建っていたが、そのあとどうなったかは知らない。(笑)

縁起担ぎ

わたしは縁起を担ぐほうではない、と思っていた。しかし先週の木曜日2月26日の朝の自分の行動を振り返ってみるとそうではないのかも?という気になる。

この日、2月26日はわが家に1週間ホームスティしていた M嬢が日本へ戻る日だった。お預かりしている間心配だったことはどこかで交通事故とか窃盗事件、テロ事件に巻き込まれることだった。

幸いなことに1週間が無事に過ぎてその日はいよいよ彼女が空港へ向かう日だ。しかし何事も最後の締めが肝心。フッと気を抜いた時に思いがけない事故が起こるのは何度か経験している。

で、このところの日常で4時20分頃に目が覚めた。トイレに行こうかなと思ってベッド脇の時計を見ると4:29となっている。なんだか縁起の悪そうな数字だ。もう少し我慢してと思っていたら4:44となっている。こりゃいかん!

そのあとグズグズしているうちに時計の文字盤は4:49となってしまった。こうなるとまた動けない。トイレに行くのを我慢して5:00迄は待とうと努力する。

やっと5:00になって起き上がろうとして、もしかするとベッド脇の時計は(電波時計ではない)正確では無いかもしれないと不安になった。そこで時計が5:03を示すのを待ってやっと起き上がりトイレへ。

そのあと二度寝して起きた時に、外はもう明るくなっていた。明るい陽の中でそのことを振り返ると自分ながら「バカだなぁ」と思う。わたしはやはり縁起を担ぐ方なのかもしれない。それとも老いたか?

ベッドを新調した

妻の持病である背中痛とわれわれの老後のためにと新しく多機能なベッドを先週末に導入しました。義父を介護していてベッドってとても大事なんだとあらためて気づいた次第。

そして今週から生活様式が一変。夕食を食べ終わってしばらくすると彼女はそそくさとパジャマに着替えてベッド・イン。

理由は寝室にテレビを移したからです。リモートコントロールで背中の部分を立てて腿の部分も少しあげるとテレビを観るのに快適な姿勢となります。眠くなったら背中の部分を元通りにしてそのまま眠りにつくというわけ。

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ときどき何かが必要になると自分でベッドから出る代わりにダイニングキッチンにいるわたしに WhatsApp で”Osamu kannst mal kommen” (ちょっと来てくれる?)とメッセージが入ります。(^_^;)

今は妻の仕事も忙しい時期で朝は7時頃に家を出て夜は7時頃にグッタリした表情で帰宅するのでそれでいいのかな。

雪の中の小鳥たち

今年の冬は小鳥の餌台を新調した。毎日ほぼ同じ時間にたくさんの小鳥たちが訪れる。ほとんどはシジュウカラ (Meisen) とクロウタドリ (Amsel) なのだが、時にキツツキ (Specht) も来る。

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これも希にだがゴジュウカラ (Kleiber) も姿を見せる。ブリギッテはこのトリが来ると「Carlos よ!」と喜ぶ。指揮者のカルロス・クライバーにかけているらしい。(笑)(下の写真はWikipediaのものです)

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クリスマス休暇で帰省している娘たちにブリギッテが「ここ数日クライバーが来ないわね」とつぶやいたら娘の答えが「クリスマス時だからどこかで指揮してるんじゃない?」

母と娘のクリスマスらしからぬ会話

一昨日、12月25日のこと。
総勢10人のクリスマス食事会は18時に予定していた。1時間ほど前にオーブンで焼き上がったガチョウ(Gans)をブリギッテが切り分けていた。

今年は2羽のガチョウを1度に焼いたので専用のハサミとナイフで切り分ける作業も重労働。2羽目のガチョウに取りかかった頃には彼女にも疲れが見え始める。3人の娘たちは手伝いのためにブリギッテの両脇にいておしゃべりにも余念がない。そこでの会話を聞くともなく聞いていたら・・・。

ブリギッテ:
(コンガリと焼き上がったお腹を上に横たわっている2羽目のガチョウを前にして)
今日のお客である○○○さんだったら大学で解剖学を学んでいるはずだから、どの関節を切り離せば良いかとか、どこにナイフを入れればきれいにさばけるかとをよく知ってるはずよね〜。
(と言いながら詰め物をして縫い合わせた部分の糸を切り始めている。彼女は婦人科の医者でわが家の女性陣は全員が彼女の患者)

娘のひとり:(次女か末娘)
そうとも限らないんじゃないの?このガチョウがメスであればそれは言えるかもしれないけれどオスだったらどうかな〜、ハハハ!

会話を耳にしたわたし:
ドキッとしていっしゅん股間に違和感を感じた。(^_^;)

短い介護経験から得たこと

1.基本的に個人での介護は無理がありすぎて絶対に家族の誰かを不幸にする。
2.年齢を重ねたら健康なうちに然るべき時点で介護センターに入所出来る準備(蓄え)が必要。
3.介護保険はしっかりと掛けておくべき。
4.公的に利用出来る制度は積極的に利用すべし。
5.本人が望まないのに入院させ延命させるのが幸せとは思わない。

ブログをしばらく休止した理由。

今となってみればわずか16日間の介護で義父は亡くなった。正直な感想はよいタイミングで亡くなってくれたというもの。わたしの人間性を疑われるような事を書くがこれが本音である。

今日から全てが以前通りに回転し始めた。義父を引き取ってからも毎日日記は書いていた。しかし、その内容がだんだん暗い方向へと引きずり込まれていき、1週間後の日記は愚痴が多くなってきた。こんなものは誰も読みたくはないだろう。

介護をすることになったと書いたときに多くの知人、友人から「頑張って!」「身体を壊さないように}という励ましの言葉をいただいた。ありがたいことである。しかし介護の時が進んでいくと、それらのお言葉に返事を書くのがつらくなってきた。それらの言葉によって救われるということは決して無いからである。

このあとに読んだ本でそんなわたしの気持ちにピッタリの場面がでていたので引用しておく。

(引用開始)
それにしても、会うごとにどの友人にも「どう、落ち着いた?」と訊かれるのには、留美子は閉口した。父親の不幸な事件のショックから立ち直ったかーという慰藉の言葉には違いないのだが、そのつど、さりげなく平然を装ってみせるか、もっともらしく深刻ぶってみせるか、存外、難しいものである。(p.298)
(引用終わり)

励ましてくれたコメントへの返事がだんだん遅くなったりする自分が卑小に思えてそれがまた自分を苛んだ。こうしてネガティブ・スパイラルに落ち込んでいくのだという自覚があった。これからあとも介護をすることになった知人、友人がいたら何も言わずにそっと見守って上げたいと思う。

出口の見えないトンネルの中に自分がいると自覚するのはつらいものである。

スピード違反

8月1日(金)・晴れ/最高気温23度

去る7月8日に車でオルデンブルグへ向かったのだが、途中でアウトバーンの乗り換え時にピカッと光った。折悪しくかなり強い雨が降っているときだったので稲妻かなと思ってそのまま通り過ぎた。

今日郵便受けに入っていたのはスピード違反の通知書。あれはカメラのフラッシュだったようだ。(-_-;)

そこは違うアウトバーンに切り替わる地点で、当然のことにスピードは出せないしかなりの雨だったから注意して走った記憶がある。しかし書類を見ると制限速度80Kmのところをわたしは87Km で通過したそうだ。

7Km オーバーである。違反料金は10€。

そういえばもう20年以上も前になるけれど、やはりアウトバーンの出口でピカッと光ったことがあった。その時は確か60km制限のところだった。このどちらもヘッセン州(フランクフルトのある州)での出来事。これからヘッセン州に入ったら気をつけて運転しなくては。(^_^;)

血液検査の結果

昨日家庭医の処に出向き血液検査のために血液を採取した。1年に1度はやるべきなんだそうだ。その結果が出たというので印刷して貰ってきた。

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日本人とドイツ人の身体能力は違うだろうから基準となる数字の評価は若干異なるかもしれない。赤い線で囲んだ箇所はわたしが大事だろうと思う項目である。

総コレステロールの数値が許容値を超えているがこの意味はよくわからない。その下のコレステロール値(HDL/LDL)が正常だからだ。WEB で調べたらそれほど気にすることもないようだ。

肝機能は1年前の数字と較べると若干低下している。まだ許容範囲内ではあるけれどちょっと酒量を控えたほうが良いのかもしれない。最近は Weißbier を一本(500ml)飲んだあとに続いてワインを飲むことが多かった。(^_^;)

昨年と同じように今回も特別に検査して貰ったのは「前立腺」。わたしの年代の男性はこれが鬼門だと思える。この数字を見るとどうやら前立腺癌の疑いはないようである。

昨年の血液検査へのリンクは
血液検査の結果 |  Mein dritter Blog である。

というわけで来年の検査までは少し酒量を抑え、適度な運動をして毎日を過ごすつもりだ。

山学校

昨日は体調が良くなく目まいがしたので英語コースをサボろうかなという気が働いた。(^_^;) そのあとで夕食を街中でとる約束があったので結局出掛けたが終わってみればサボらなくて良かった。今日になってそんなことを考えていたらふと幼年時代の「山学校」という言葉を思い出した。

わたしは小学校の頃からとにかく真面目に学校に通う子供だった。あの頃は休まずに登校してきた生徒には「精勤賞」という賞状が与えられたが、小学校、中学校を通してわたしは何度もそれを貰った記憶がある。

しかし真面目に学校に通うのとよく勉強するというのは別物である。わたしは自分でも否定できない薄ボンヤリとした子供だったし下校したらランドセルを家の中に放り込んですぐに遊びに出てしまうような少年だった。まあ、周りを見ても宿題を済ませてから遊ぶなんて殊勝な子供はいなかった。

弁当箱を紛失してしまったと言って小学3年生の頃までに新しい弁当箱を2つ買って貰ったのはその頃のこと。のんびりしていた時代とは言っても、3年間に2つというのはちょっと多い。(笑) これがよくよく調べてみたら空の弁当箱はランドセルの中に見つかった。親は「空の弁当箱を担いで毎日学校に行っていたなんて、なんてボンヤリしている子なんだろう」と叱られた記憶があるが、今になってみれば親もわたしのランドセル内を点検しなかったというわけでどちらもどちらである。(笑)

で、「山学校」という言葉だが、これは学校に行くのをサボって近所の山で遊ぶことを当時の子供達はそう呼んだ。クラスの中でときどきこれをやる生徒がいて(男生徒だけだが)、そいつらが休むと「あいつら、また山学校に行ったな」と級友達と噂していた。

山学校をちょくちょくやる生徒は当然学校の授業についていけなくなることが多い。そしてまた山学校へという悪循環だった。わたしは「あいつらはバカなんだ」と子供心にも見下していたのだが、あるときその生徒達がときどき他の生徒達が弁当を開いている時間に校庭に出て遊んでいるのに気がついた。

彼達は弁当を持って来られないことを恥じていたのだ。昭和29年から30年代になろうとしていた頃には子供に弁当を持たせられない貧しい家庭がまだあったのである。絶対にお腹が空いてたまらなかったろうし、まわりの生徒達が弁当を使っている中にだまって座っているのは耐えられなかっただろう。

彼達が毎日弁当を持ってくることが出来ていたら、その結果学校の授業にもついていけて「山学校」に行くこともなかったろうに。そんなあの頃を思うともの悲しくなる。

なにやら惜しい宝くじ

昨年の暮れに日本に滞在していたときに大井町駅前で「年末ジャンボ宝くじ」を買った。運試しと滞在を記念してという気持ちだったと記憶している。

年末年始の忙しさにそれを忘れていたのだが、昨日その記事を見てイソイソと買った宝くじを調べてみた。

買ったのはバラ券10枚入りのものだったが、結果は¥300が一枚当たっていただけ。しかしその中には「これは惜しいのではないか」と思える札があった。

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ちなみに当たりクジ番号は1等(5億円):23組130916番である。組こそ違え 130916番と 138916番 はなにやら近いような気がするのだけれどわたしの感覚がおかしいのかな? (笑)

ブログを始めて10年が過ぎた

今日もウォーキングをしていたのだが、歩いている間に気がついた。10日前にわたしがブログを書き始めてから10年目を迎えていたのだ。最初の記念すべきエントリはこれ。

Weblogに挑戦 

最初の頃はアップル社から無料で提供された iBlog というソフトを使っていてこの iBlog を中心にいろいろな分野の素敵な人とのつながりが生まれた。今でもそのつながりは続いている。この一点だけでもやって良かったと思う。

ブログを始めたそもそもの目的は故郷に住む姉にわれわれ家族の日常を知らせることだった。姉にしてみればドイツに住む姪子達の日常を知りたかったのだろう。

だから日記がわたしのブログのメインになっている。そのあとに数個のカテゴリが追加されていったが、現在はまた原点に戻ったように日記主体のブログとなっている。

2012年7月までオペラ劇場に勤めていてその時その時のトップクラスの指揮者や演出家、そして歌手達を肌で感じることが出来たのは大げさでなく毎日が興奮だった。

夜になってマックに向かったときに、あれもこれもと書きたいことは沢山あったのだがブログ上では「なにを書くか、よりもなにを書かずにおくか」をいつも心掛けていた。時々は書かずに残念と思うこともあったが、今ではそれで良かったのだと思っている。

わたしのブログを読んでくれている人たちから届くコメントのおかげでこれまで楽しくやってこられた事は感謝以外の何物でもない。その日の出来事を書いているうちに結果として、1日1日を大事に生きるようになっていった。

これまで飽きずに読んでくださっている人たちには改めてお礼を言いたい。そして、これからもこのスタンスで続けていきたいと思っている。

10歳ーその3

こんな事を書きながらじつはわたしも過去に似たようなことを末娘にしている。それは娘がまだ11歳にならない1997年の夏のことだった。11歳からは航空運賃が大人並みになるからである。

東京に数日滞在している間にどうしても秋葉原は1度訪れておきたかった。しかし10歳の娘連れでは行動範囲が狭まるし何軒も廻れない。

そこで秋葉原駅の改札口を出てすぐ左にあったバーガーを売る店に入りハンバーガーとフライドポテトを娘にあてがい「パパは1時間で戻ってくるからここに座って食べていなさい」と言いおいて電気店巡りを始めた。

1時間あとに戻ってみると娘の前にはまだフライドポテトが残っていて「なんだ、食べなかったの、おいしくない?」と訊いたら目に涙を浮かべながら「パパが戻ってくるかどうか不安で喉を通らなかったし、わたしフライドポテトはあまり好きじゃないの」と言われてさすがのわたしも自責と後悔の念に駆られた。そのとき末娘はまったく日本語を解しないし話せなかった。なんという父親だったんだろう。

日本に戻って妻にその話がばれ、キツイおしかりを受けたのは、今では自業自得だと思っている。そのあと故郷に帰ってそこで急性肝炎を発症しドイツに戻るまで寝込んでしまったのはその罰が当たったのかもしれない。あの夏も日本は強烈に暑かった。

10歳ーその2

その話を聞いてわたしもその男の子ぐらいの年齢の時に似たような経験をしたことを思いだした。

1度定年になった父がそのあとの職場として通っていたのは隣町だった。あるときその会社の運動会があって珍しく父が10歳ぐらいのわたしを連れていってくれた。あとから考えるとわたしの同伴はどうも母の命令だったようだ。

しかし運動会が終わっていざ帰ろうとしたら父が「俺はちょっと用事があるからお前1人で帰れるな?」と言う。気の弱いわたしはあいまいな返事をして父と別れたが、本当は自分がどこに居るのかもわからなかった。

どうにかこうにかわたしは家にたどり着いたのだったがその途中の経過は全く記憶に無い。ただもの凄く心細かったのをいまでも思い出す。

今思うに父は職場の仲間と飲む約束をしてしまい、子供のわたしが邪魔になったのに違いない。父のその時の気持ちも今のわたしには良くわかるのである。そしてきっとその晩は母にこっぴどく叱られたと思う。(笑)

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昨夕ブリギッテは帰宅後すぐに週1度の体操へ出掛けて行った。8時頃には終わるのだがその頃に電話があり「いま、迷子の男の子の世話をしているから少し遅くなります」という知らせ。彼女は帰宅してからその内容を話してくれた。

彼女が体操を終わって出てくると10〜11歳ぐらいの男の子が「ぼく、自分が今どこに居るかもわからない。Eierwiese まで行きたいんだけれどそこはここから遠いの?」と話しかけてきた。子供の足でそこまで行くのはちょっと距離があるので「どうしたの?」と訊いたら友だち3人で遊んでいて喧嘩になり友だち2人は彼を残してどこかへ行ってしまったらしい。

今の時期、午後8時というとミュンヘンはもうすでに暗い。頼りなさそうでまつげの長い可愛い男の子1人では最近の世情を考えるとなにかと物騒である。ブリギッテが「わたしの携帯を使って家に電話しなさい」と言っても「そんなことをしたらお母さんに叱られる」と断るので、「そんなことは絶対にないから。お母さんは心配してるよ」と言い聞かせて電話をさせた。

彼のお母さんは驚いて迎えに来ると言う。やはり心配していたようだった。ブリギッテは彼をお母さんと打ち合わせた待ち合わせ場所まで車で連れて行ってお母さんの到着を待った。その間彼と会話をしたのだが、
「世界で一番優しくて大好きな両親なんだ。もうしばらく怒られるようなことをしていなかったのに、今日は絶対に叱られるだろうなぁ」としょげかえっている。その様子がとても可愛らしかったそうだ。

待っていたお母さんはブリギッテへのお礼にワインを一本持って駆けつけ一件落着となった。

血液検査の結果

先日、高専の時の同級生が急性前立腺癌で亡くなったという知らせを受けた。ショックだった。彼もこれから楽しもうと思っていた人生を断ち切られて無念だったろうと思う。

わたしもこの辺で検査しておいた方が良いのかもしれないと思いだした。しかし前立腺の検査というのは肛門から指を入れられるので前立腺が肥大していたりすると強烈に痛いのと屈辱感を伴うのが嫌なのだ。

知り合いの医者にそんなことを話していたら「じゃあ、まず血液検査をしてみたら?それだけでも異常があるかどうかはわかるよ」とアドバイスをいただいた。それならと、昨日は家庭医を訪れて血液を採って貰い、今日の午後その結果を聞いてきた。

データを見る限り前立腺に異常は見られないということがわかって今はホッとしている。昨日も今日も血圧を測定したのだが、両方とも 110-80 ということで、これまで数年間服用してきた血圧降下剤は必要ないのでは、ということで明日から止めてみることにした。

コレステロール値も肝機能も正常な範囲に収まっているのは嬉しい。この夏も心おきなくビールを楽しめる。(^_^) 記録として貰ってきた血液検査データを下に添付しておく。

血液検査

音と臭い

ふとした臭いに出会ったとき、それを基点として一瞬にして何十年も前の風景が蘇ることは良く聞く話。しかし、それが音にもあるということを数日前に経験した。

You Tube で、ある日本映画を観ていたときに登場人物がアルミサッシの窓を開ける場面があった。アルミサッシの窓についているベアリング特有の「カラカラ」という音を聞いたとき、わたしの脳裏に鮮やかに浮かび上がった景色があった。

それはまだ芸大に入学する前の浪人中だったか、すでに芸大で学んでいた頃だったかは定かで無いが、その頃に住んでいた西武新宿線・小平駅から10分ほど歩いたところにある8畳一間のアパートから眺めた光景だった。

夏のまだ充分に暑い夕方にそのアパートに帰ってきてアルミサッシの窓を開け、留守中に溜まっていた部屋の熱気を逃がしたときの光景である。

その当時その辺はまだ畑が点々と存在していた地域で、どこかもの悲しい、そして乾いた風景だった。自分の将来が霧に閉ざされたように不透明で確たる希望も持てない、そんな時代だったことを思い出した。

アルミサッシの「カラカラ」という音はわたしにとって青春が持つ不安と、もの悲しさを感じさせる音なのである。

チェシュメ (トルコ) にもウォッシュレットが

時間の経つのは本当に速い。先月の今日はすでにチェシュメでの夏休みを過ごしていたのだった。チェシュメでちょっと驚いたのはトイレがウォッシュレットだったこと。

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上の写真のように、電動式ではないが形状は日本のウォッシュレットと基本的に同じである。ただ、温水が出たり便座が暖房されていたりということはない。ノズルも出たり引っ込んだりはしない。写真の左上段の水栓を回すとウォッシュレットから水が出てくるという単純な仕組みだ。使い心地は・・・・、不明である。わたしにはどうもうまく使いこなせなかった。(-_-;)

帰国時にイズミアの空港で公衆トイレを確認してみたらそこにもちゃんと付いていたからトルコではこれがスタンダードなのだろう。